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リセット  作者: ナオ
72/79

72話 引き継ぎ

 駅ビルの事務室から池袋署へ話が回ったのは、夕方を少し過ぎた頃だった。

 

 大きい事件ではない。

 被害額も大したことない。

 万引きの引き継ぎとしては、池袋ではよくある方だ。

 

 でも、生活安全課の小早川誠一は、書類の上に並んだ品目を見た時、少しだけ手を止めた。

 

 生理用品。

 化粧水。

 おにぎり2個。

 

 それだけだった。

 

 ブランド品でもない。

 転売できそうな物でもない。

 逃げるための金になる物でもない。

 

 今日の身体と、今日の顔と、今日の腹をどうにかするための物だけが並んでいる。

 

 それが妙に、池袋らしかった。

 

「またこの系統ですね」

 

 後輩の水谷が書類をのぞきこんで言う。

 

 誠一は返事をしなかった。

 系統、でひとまとめにするのは簡単だ。

 

 若い女。

 金がない。

 夜の店。

 万引き。

 

 池袋ではよく見る並びだ。

 

 でも、よく見るからこそ、たまに嫌になる。

 自分がその並びを、一瞬で読めるようになっていることが。

 

「勤務先っぽい着信、結構来てます」

 

 水谷が言う。

 

 誠一は机の端に置かれたスマホを見た。 

 画面は伏せてある。

 

 でも、短い振動だけが何度か続いていた。

 風俗店だろうと、誠一はほとんど確信していた。

 

 名前を見なくても分かる時がある。

 着信の間隔。

 切れ方。

 メッセージの短さ。

 

 夜の店から来る連絡には、だいたい同じ種類の冷たさがある。

 

 心配してるんじゃない。

 今夜の穴をどう埋めるかだけを見ている。

 

「本人、まだ何も言ってないですか」

 

「はい、最初は黙ってました」

 

「でも店の着信見たら、ちょっと顔変わったって」

 

 誠一は小さくうなずいた。

 

 それもよくある。

 

 捕まったことそのものより、今夜の出勤や店への言い訳を先に気にする。

 

 普通の順番じゃない。

 でも池袋の夜に長くいると、その順番で物を考える人間がいる。

 

 本人が壊れているというより、生活の優先順位がもう夜の仕事の方へ寄ってしまっている。

 

 それがさらに戻りにくい。

 

 由奈は別室にいた。

 

 20代前半。

 痩せすぎてもいない。

 派手すぎてもいない。

 

 でも、目の下の薄いくすみだけが少し濃かった。

 夜の仕事をしている女の顔だと、誠一にはすぐ分かった。

 

 顔つきじゃない。

 

 疲れ方だ。

 朝方の疲れと、夕方の疲れが同時に顔へ残っている。

 

 そういう疲れ方をする女は、池袋に多い。

 

「確認しますね」

 

 誠一が言うと、由奈は少しだけうなずいた。

 

 泣いてはいない。

 強がってるわけでもない。

 

 ただ、自分の中で優先することが多すぎて、感情の置き場が見つかっていない顔だった。

 

「お仕事は」

 

 誠一が聞くと、由奈は少し黙った。

 

 ……それから言う。

 

「夜です」

 

 それで十分だった。

 

 水谷はメモを取る。

 

 誠一は続ける。

 

「店名は」

 

 由奈はそこで初めて少しだけ嫌そうな顔をした。

 

 恥ずかしさというより、防御の顔だった。

 そこだけは触られたくない線なんだろうと思った。

 

「言わなきゃだめですか」

 

「確認は必要です」

 

 由奈は少しうつむいて、店の名前を言った。

 

 誠一は聞き覚えのある名前だった。

 

 北口寄り。

 届出の話しを聞いたことがある。

 

 表向きの言い方と、実際に流れている噂の温度が少し違う店だった。

 

 やっぱりな、と思ったが、顔には出さない。

 

「今日は出勤予定だった」

 

「……はい」

 

「今も連絡来てる?」

 

 由奈は少しだけ視線を机の方へ動かした。

 

「来てます」

 

「出る?」

 

 その質問に、由奈はすぐには答えなかった。

 

 出たいわけじゃないだろう。

 でも出ないと、その先がもっと面倒になるのは分かっている。

 

 その計算を先にしている顔だった。

 

「……出た方がいいです」

 

 由奈はそう言った。

 

 誠一はその返事を聞いて、少しだけ息を止めた。

 

 捕まって、引き継がれて、事情を聞かれている最中に、本人の頭の中ではまだ“出た方がいい”が先に来る。

 

 それが池袋の夜の生活の強さなのか、弱さなのか、誠一にはたまに分からなくなる。

 

「何て言うつもりですか」

 

 由奈は答えなかった。

 答えられないんじゃない。

 

 もう何パターンか頭の中で考えていて、そのどれも薄いのだろう。

 

 体調が悪い。

 電車が遅れた。

 スマホが見られなかった。

 寝ていた。

 

 どれも今日の自分には足りない。

 でも、本当のことなんてもっと言えない。

 

 そういう顔だった。

 

 机の上には、駅ビル側から引き継がれた品目の一覧があった。

 

 生理用品。

 化粧水。

 おにぎり2個。

 

 その文字の並びが、誠一にはやけに静かに見えた。

 

 これだけなんだ、と思う。

 これだけの物で、女が捕まる。

 でも逆に、これだけの物だからこそ、その女の生活が見えてしまう。

 

 今日の身体。

 今日の顔。

 今日の腹。

 

 そこが足りない。

 その足りなさが、池袋では夜の仕事ときれいにつながってしまう時がある。

 

 由奈のスマホがまた震えた。

 今度は電話ではなく、短いメッセージだった。

 

 水谷が由奈を見る。

 

「確認だけしてください」

 

 誠一が言うと、由奈は画面を見た。

 その目が一瞬だけ止まる。

 

「何て?」

 

 誠一が聞く。

 由奈は少し間を置いてから答えた。

 

「今日、無理なら早く言ってって」

 

 それだけだった。

 それだけなのに、誠一は少しだけ奥歯に力が入るのを感じた。

 

 心配でもない。

 怒りでもない。

 ただ、池袋の夜ではそういう文が当たり前に送られてくることへの、嫌な慣れが自分の中にある。

 

 昔ならもう少し腹が立ったかもしれない。

 でも今は、その短さを見た瞬間に、店の側の計算まで読めてしまう。

 

 この時間ならまだ別の女を入れられるとか、穴埋めがきくとか、そういうことを先に思ってしまう。

 

 その自分が、少しだけ嫌だった。

 

「おにぎり、今日の分だったんですか」

 

 水谷が不意に聞いた。

 

 由奈は少しだけ笑いそうな顔をした。

 でも笑わなかった。

 

「たぶん」

 

「たぶん?」

 

「食べるつもりではいたんで」

 

 その言い方で、誠一には分かった。

 

 本人の中でも、もう“必要な物を盗った”と“ストレスで盗った”の境目が曖昧なのだ。

 

 生理用品も、化粧水も、おにぎりも、たしかに今日の自分には要る。

 

 でも、要るだけで手を出すなら、ここまで何回も繰り返さない。

 

 多分、盗る瞬間だけ少し静かになれるのだろう。

 その静かさを、一度知ると戻れないことがある。

 誠一はそういう顔も何度か見てきた。

 

 生活安全課っていうのは、事件の手前を扱う場所だと思っていた。

 

 でも池袋にいると、たまに違う。

 事件のあとより、事件とも呼びにくい崩れ方の方を何度も見る。

 

 家出とも断定しにくい。

 薬物とも言い切れない。

 

 風俗とも、ただの夜職とも線が曖昧だ。

 その曖昧さの中で、人だけが少しずつ壊れていく。

 

「保護者へ連絡は」

 

 水谷が小さく聞く。

 

 誠一は少しだけ由奈を見た。

 由奈はすぐに首を振った。

 

「親は無理です」

 

 その“無理”の中身まで、いちいち聞かなくても想像できてしまうのが嫌だった。

 

 怒鳴る母親かもしれない。

 無関心な父親かもしれない。

 帰ってもまた出てくるだけの家かもしれない。

 

 そういう家を、池袋では何度も見る。

 

 本人にとっては人生のいちばんきつい場所でも、書類の上では「保護者」ときれいにまとめられる。

 

「店へは」

 

 誠一が聞きかけると、由奈は少しだけ目を伏せた。

 

「……そこも無理です」

 

 そうだろうなと思った。

 でも、無理です、のままでは今夜の由奈の生活は止まらない。

 

 そこが一番きついところだった。

 普通の家や普通の仕事なら、捕まった夜はそこで少し止まる。

 

 でも夜の池袋にいる人間は、捕まっても、保護されても、事情を聞かれても、その先の生活の連絡だけは切れない。

 

 由奈のスマホがまた震えた。

 今度は短く一回だけだった。

 誰かがあきらめた時みたいな、弱い振動だった。

 由奈はそれを見なかった。

 でも、見なくても内容はだいたい分かっている顔だった。

 

 誠一は机の上の一覧をもう一度見た。

 

 生理用品、化粧水、おにぎり2個。

 

 これが引き継がれてきた案件の中身だ。

 駅ビル側の書類では、万引きで終わる。

 池袋署の書類でも、最終的にはそうなるのかもしれない。

 

 でも、実際に目の前に座っている由奈を見ていると、とてもそれだけには思えなかった。

 

 夜の池袋には、こういう終わり方をする女がたしかにいる。

 

 大きな事件じゃない。

 ニュースにもならない。

 

 でも、身体と顔と食べ物の全部が足りなくなって、明るい駅ビルで手を出して、そのあとも真っ先に店の着信を気にしている。

 

 そういう壊れ方が、ここでは珍しくなくなっている。

 

 珍しくないことに、自分が慣れている。

 そのことを、誠一は少しだけ嫌だと思った。

 でも口には出さない。

 

 生活安全課にいると、嫌だと思うことと、処理することがどんどん近くなる。

 

 近くなりすぎると仕事はしやすい。

 

 でも、人としては少しずつ鈍る。

 

 由奈のスマホが、机の上でまた一度だけ震えた。

 今度は誰も何も言わなかった。

 

 その小さい振動だけが、部屋の中で妙にはっきり聞こえた。

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