64話 出所した男
戻る場所がない男ほど、出る前はよく眠るらしい。
そう木暮は聞いたことがあった。
眠ってる間だけは、まだ昔の池袋へ戻れるからだと。
木暮修平は34歳。
池袋の西口と北口の間みたいな場所で、もう長く半端な仕事をしている。
表向きは何もない。
夜だけ動く。
店と人の間をつなぐ。
金の話をし、飛んだやつの所在を聞き、消えた売上の穴を埋める。
ヤクザの看板を表に出すほどではない。
でも、完全に堅気でもない。
そういう位置だった。
だからこそ、昔の人間が戻ってくる話は全部こっちへ落ちてくる。
今回もそうだった。
出てくるのは、相原だった。
44歳。
前は池袋の西口側でそこそこ名前が通っていた。
店を何軒か見て、下も持っていた。
黒服も若い衆も使っていたし、金の流れも知っていた。
木暮がまだ20代だった頃、相原はちゃんと怖かった。
怒鳴らないのに、空気だけで人を黙らせるタイプだったからだ。
そういう男がいちばん長く効く。
でも相原は、5年半前に消えた。
正確には、捕まった。
薬と傷害の間みたいな、何とも言えない案件が重なって、最後は別件もついて、池袋から抜かれた。
それで流れは全部変わった。
まず、相原の下にいた若い衆が散った。
別の人間についたやつもいる。
消えたやつもいる。
シャブで潰れたやつもいた。
次に、見ていた店が別口へ移った。
その時点で、もう“相原の池袋”は半分終わっていた。
残りの半分は、女だった。
昔から相原のそばにいた女がいた。
由佳という名前で、夜の街では少し知られていた。
店の女ではない。
でも店の中へも入れるし、外の金の話にも噛んでいた。
そういう女だった。
相原が入ってすぐは、面会にも行っていたらしい。
でも2年を過ぎたあたりから、もう行っていないと木暮は聞いていた。
今は北口の別の男についている。
別の男といっても恋人の顔じゃない。
もっと生活の都合に近い顔だ。
池袋ではそっちの方が長い。
出所前の話が来たのは、兄貴分筋からだった。
木暮より少し上の、でも上に行ききれなかった男から、短くLINEが来た。
『相原、来月出る』
それだけ。
それだけで十分だった。
池袋で一回抜けた男が戻るっていうのは、本人だけの話じゃない。
席があるか。
金が残っているか。
昔の顔がまだ効くか。
若いのが嫌がるか。
由佳がどうするか。
……全部が少しずつ動く。
そして大体、戻る本人だけが昔のままの気でいる。
そこが一番まずい。
木暮は西口の喫茶店で、神崎と会った。
神崎はもう40前だが、池袋ではまだ“若い方”の顔も使える男だった。
店とも繋がるし、下の話も拾える。
「相原、戻します?」
神崎が聞いた。
木暮は煙草を指に挟んだまま答えた。
「戻したいのは向こうだろ」
「こっちはまだ考える」
神崎はうなずいた。
その答えが一番現実的だと分かっている顔だった。
昔、相原の下にいた男たちは、今は別の流れで食っている。
もし相原が戻れば、その顔を立てなきゃならない瞬間が出る。
金の取り分も変わる。
座る席も変わる。
若いのが今さら頭を下げたくない相手も出てくる。
池袋っていうのはそういう街だ。
義理が残っているようで、生活の方が先に上書きする。
兄貴分だろうが恩人だろうが、5年も抜ければ別の流れができる。
戻る方がむしろ空気を読めない扱いになる時もある。
「店は」
木暮が聞くと、神崎はスマホを見た。
「西口の2軒は今のまま」
「北口は別口が深い」
「コンカフェ寄りはもう完全に若いののライン」
それで十分だった。
戻す場所がない。
正確には、物理的にはあるが、相原が戻って気分よく座れる場所がない。
それは、戻らないのとほとんど同じだった。
「由佳は」
木暮が聞くと、神崎は少しだけ笑った。
「一番面倒なの、そこですよ」
そうだろうなと木暮も思った。
女っていうのは、昔の男が出てくると少しだけ話がややこしくなる。
でも実際には、恋愛なんて大して残っていないことの方が多い。
残っているのは生活の履歴だ。
部屋を借りた時の名前。
昔持っていた金の流れ。
預けた荷物。
知っている人間関係。
それが、出てくる男と一緒にもう一回起き上がる。
由佳とは北口の裏で会った。
明るい通りを一本入った、古い中華屋の前だった。
夜10時すぎ。
由佳は前より少しだけ太っていた。
でも顔はむしろきれいになっていた。
若い頃の派手さが薄れて、代わりに“簡単には崩れない女”の顔になっている。
そういう女は池袋で長い。
「久しぶり」
木暮が言うと、由佳は笑わなかった。
「何の話」
最初からそれだった。
懐かしむ顔はしない。
もうその辺は終わってる女の顔だった。
「相原、来月出る」
由佳は少しだけ目を細めた。
それだけだった。
驚いた顔もしない。
泣きもしない。
そういうのを少し期待していたわけじゃないが、あまりに平らで、木暮は逆に少し寒くなった。
「……そう」
「会う気ある?」
由佳はコンビニの袋を持ち直した。
「ない」
「早いな」
「早いも何もないでしょ」
その返しが、すごく池袋っぽいと思った。
会う気あるかないかなんて、情じゃなくて手間の話なのだ。
会えばまた何かが動く。
金の話かもしれない。
昔の話かもしれない。
住む場所かもしれない。
だったら会わない方がいい。
そういう判断だった。
「向こうは多分まだ、あんたを昔のままで見てる」
木暮が言うと、由佳は少しだけ笑った。
今度はちゃんと笑ったが、冷たかった。
「それ、本人の自由でしょ」
「私には関係ない」
それで終わりだった。
でも、関係ないわけがないのも木暮は知っていた。
相原が出てくれば、由佳の名前もまた少しずつ夜の中で出る。
誰かが会ったかと聞く。
まだ繋がってるかと探る。
そういう街だ。
本人が切ったつもりでも、周りがしばらく切らない。
出所1週間前、相原本人から初めて木暮へ手紙が来た。
今どき手紙、という感じだったが、そういう場所に長くいるとまだそれしかない。
字は思ったより整っていた。
内容は短かった。
『池袋は今どうだ』
『出たら一度話したい』
『由佳は元気か』
最後の一文が、やっぱり入っていた。
木暮はそれを読んで、少しだけ目を閉じた。
こういうところなんだよなと思った。
本人だけが、昔の池袋と昔の女がまだ繋がっている気でいる。
でも外はもう全部変わっている。
変わっているのに、それを手紙一枚で伝えるのも違う気がした。
木暮は返事を書かなかった。
代わりに面会へ行った。
出る前に一度、顔を見ておく必要があると思ったからだ。
面会室のガラス越しで見た相原は、少し痩せていた。
でも目だけは変わっていなかった。
そこが一番まずかった。
弱くなっているならまだいい。
自分がもう昔とは違うと分かっている顔なら、外へ出てからも少しは話が早い。
でも相原は違った。
体は細くなっているのに、目だけはまだ“戻ればいける”顔をしている。
「久しぶりだな」
相原は言った。
「そうですね」
「池袋、どうだ?」
「変わりましたよ」
木暮は最初からそう言った。
遠回しにしても仕方ないと思ったからだ。
相原は少しだけ笑った。
「そりゃそうだろ」
でもその笑い方が、変わった内容までは想像していない感じだった。
「店も、人も、だいぶ入れ替わってます」
「俺のとこ、誰が見てる」
俺のとこ。
その言い方で、木暮は少しだけ息を吐きたくなった。
もう“相原のとこ”じゃないのだ。
でも、ここで真正面からそう言っても、話が早く進む感じはしない。
「今は別口も入ってます」
「全部は戻らないです」
相原は少しだけ黙った。
「由佳は」
やっぱりそこへ行く。
木暮はガラス越しに相原の顔を見た。
「元気ですよ」
「会う気は?」
「薄いです」
その言い方が精一杯だった。
ない、と言ってもよかった。
でも出る前の男へ、そこまできれいに切るのも違う気がした。
相原は手元を見た。
その沈黙で、少しだけ現実が入った気がした。
でも、それも一瞬だった。
「出たら、一回池袋回るか」
相原は言った。
その時点で、もう駄目かもしれないと木暮は思った。
回れば分かると思っている。
自分の顔を出せば、昔の流れが少し戻る気がしている。
でも池袋の夜っていうのは、そんなふうに義理よくできていない。
空いた席は埋まる。
消えた流れは別の名前で回る。
5年も抜ければ、それはもう誰のせいでもない。
出所当日、池袋は雨だった。
木暮は西口の駅前で相原を拾った。
スーツではない。
安いジャケット。
荷物は少ない。
出所した男っていうのは、だいたい荷物が少なすぎて逆に目立つ。
でも池袋は、そういう人間も飲み込む。
「変わってねえな」
相原は駅前を見て言った。
木暮は返さなかった。
変わっているのだ。
看板も店も、人の流れも、全部少しずつ。
でも、変わっていないように見えるくらい、この街は上書きがうまい。
西口の喫茶店で座った。
昔よく来た店ではない。
昔の店へ行くと、もっとズレが見える気がしたからだ。
相原はコーヒーを飲みながら言った。
「由佳には連絡した?」
「いや」
「した方がいいすか」
「いや、いい」
その“いい”に、木暮は少しだけ救われた。
少なくとも、最初の一歩で全部を昔へ戻す気ではないらしい。
でも次の言葉で、やっぱり少し駄目だった。
「店はどこから見る」
木暮はカップを置いた。
「見るのはやめた方がいいですよ」
「何で?」
「今はもう、見ると逆にきついです」
相原はそこで初めて少しだけ不機嫌な顔をした。
「俺に説教か」
「そうじゃないです」
「じゃあ何だよ」
木暮は少しだけ考えてから言った。
「戻る場所、本人が思ってるより狭いってことです」
相原は黙った。
怒鳴りはしなかった。
それだけでもましだった。
でも、その顔で分かる。
まだ飲み込めていない。
出所前の男っていうのは、檻の中で外の街を都合よく保存しがちだ。
女も、店も、若い衆も、昔のまま少し待っている気がしてしまう。
でも実際の池袋は違う。
誰か1人待っていても、その横の流れは全部変わっている。
待っていたとしても、もう生活の都合の方が先に上へ積み重なっている。
夜、木暮は相原を安いビジネスホテルへ入れた。
住む場所はまだ決まっていない。
兄貴分筋も、完全に抱える気ではない。
数日様子を見る。
つまり、それだけの扱いだった。
相原も多分、それを感じている。
感じているのに、まだ昔の顔で耐えている。
その頑張り方が、逆に少し痛々しかった。
ホテルの前で相原が言う。
「池袋、変わったな」
木暮は少しだけ笑った。
やっとそこを言うかと思ったからだ。
「変わりましたよ」
相原は煙草を出しかけて、やめた。
「俺の席、ない感じか」
木暮はすぐには答えなかった。
ない、と言えば早い。
でも本当に残酷なのは、席がゼロじゃないことだった。
端ならある。
昔より下ならある。
でも本人が座りたい席じゃない。
そういう残り方をした席が、一番人を腐らせる。
「昔の席はないです」
木暮は言った。
「でも池袋から完全に消すほどでもないです」
相原はそれを聞いて、小さく笑った。
「中途半端だな」
「この街がそうなんで」
木暮が言うと、相原は初めて少しだけ、昔じゃない顔でうなずいた。
出所っていうのは、多分自由になる日じゃない。
昔の自分がもう戻れないことを、街の明るさの中で少しずつ教えられる日なんだと木暮は思った。
池袋は特にそうだ。
消えた人間の穴をすぐ埋める。
でも、完全には忘れない。
その半端さがあるから、戻ってきた男にも、席がないのに道だけは残って見える。




