62話 飛んだ売人
池袋の夜では、売人が飛ぶこと自体は珍しくない。
珍しくないが、面倒ではある。
薬そのものより、そのあとの方が面倒だ。
残ったツケ。
残った客。
残った連絡先。
残った噂。
そういうものが一番長く街にこびりつく。
城崎圭介は29歳。
北口の裏で、薬の受け渡しそのものはもうあまりやっていない。
昔はやっていた。
駅前のトイレ。
ホテル街の角。
コンビニ裏。
ラブホの自販機前。
そういう場所で、小さい袋やシートを渡すだけの夜を何度も過ごした。
でも今は違う。
受け渡しより、誰がどこで飛んだかの方を見る側に回っていた。
それは少し上がったということでもあるし、自分で前に出なくなったということでもある。
ただ、楽になったわけじゃない。
むしろ、飛んだ人間のあとの処理ばかりが増えた。
今夜もそうだった。
飛んだのは、下で使っていた若い男だった。
源氏名みたいな呼び方で“レオ”と呼ばれていたが、本名は圭介もちゃんとは知らない。
21歳。
髪が明るい。
細い。
笑う時だけやたら愛想がいい。
客の前でも怖がられにくい顔をしていた。
だから使いやすかった。
街で細く流すには、ああいう顔の方がいい。
柄が悪すぎると警戒される。
普通すぎると舐められる。
少しだけ壊れて見える若い男が、一番夜に馴染む。
そのレオが、昨日から電話に出ない。
LINEも既読がつかない。
位置情報も切れている。
そして、持っていた分の金だけじゃなく、客の連絡先もいくつか持ったまま消えた。
……それが最悪だった。
薬は最悪、飛ばれた分だけ損切りできる。
でも客の連絡先は違う。
あれは次の金になる。
街の流れそのものだ。
持ったまま消えられると、別口へ流される。
あるいは客が直接パニックになる。
パニックになった客は面倒を起こす。
ホテル街で騒ぐ。
知ってる女へ連絡する。
別の売人を捕まえて喚く。
そうなると、一気に街がうるさくなる。
圭介は北口の古い喫茶店で、神崎と向かい合って座っていた。
喫茶店といっても、コーヒーの味なんてどうでもいい店だ。
テーブルは狭い。
ソファはへたっている。
でも、夜の池袋で少しだけ話すには都合がいい。
誰も他人の会話なんて聞いていないからだ。
「完全に飛びですか」
神崎が聞く。
40手前。
薬そのものには触らないが、夜の中で流れを見ている男だった。
客と店。
店と女。
女と薬。
そういう境目を歩くのがうまい。
「まだわからん」
圭介は短く答えた。
「でも、今日中に出なきゃ飛びでいい」
神崎はうなずいた。
「客、何人くらい」
「細いのは捨てていい」
「拾う価値あるやつだけでいい」
圭介がそう言うと、神崎はスマホを見た。
「拾う価値あるのは7です」
「そのうち3は切れます」
「残り4は夜で動くやつです」
夜で動くやつ、という言い方が一番正しかった。
昼にまともな顔をしていても、夜になると金も理性も崩れる人間がいる。
そういう客は、売人が飛ぶとすぐ揺れる。
薬が欲しいんじゃない。
いつもの連絡先が消えるのが怖いのだ。
依存っていうのは、物そのものより手に入る順番の方に出る。
圭介はそのことを、昔からよく知っていた。
「レオの寝床は」
「昨日の時点で西口のネカフェ入ってます」
「そのあと出てます」
「誰と」
「1人」
「じゃあ女絡みじゃないか」
圭介はそう言って煙草を揉み消した。
飛ぶ時、女が絡むやつはもっと雑だ。
財布を抜かれる。
部屋へ転がる。
そのまま潰れる。
でも1人でネカフェを出たあと綺麗に切れているなら、少し考えて飛んでいる。
考えて飛ぶやつの方が面倒だ。
後ろを知っているぶん、消え方もちゃんとしているからだ。
最初に客から連絡が来たのは、0時すぎだった。
北口のホテル街の裏。
細い路地のコンビニ前。
相手は30代半ばの男だった。
見た目は普通の会社員。
でも目だけがもう少し先へ行っている。
薬の客はだいたいそうだ。
最初は普通の顔をしている。
でも切れた時だけ、顔の奥が少し空になる。
「レオどこ」
男は会ってすぐ言った。
挨拶もない。
それで十分だった。
もう切れ始めている。
「知らん」
圭介が言うと、男は少しだけ笑った。
笑ったというより、口だけ動いた。
「いや、知らないわけないでしょ」
「お前誰」
「いや、向こうも急に消えるのは違うでしょ」
違うでしょ、の顔をしていたが手は少し震えていた。
薬の客は、正義感の顔で連絡してくる時がある。
返金しろ。
急に消えるな。
困るだろ。
……そういう顔。
でも本当に困っているのは、返金じゃなくて今夜の分が切れてることだ。
圭介はその顔を見ると、少しだけ昔を思い出す。
自分も若い頃は、別の売人へそういう顔をした夜があるからだ。
今はもう、そういう顔を見せる側じゃなくなっただけで。
「次、俺に連絡しろ」
圭介は短く言った。
「レオの番号は消せ」
男は少し黙った。
それから言う。
「値段変わる?」
「物による」
「今日いける?」
それで終わりだった。
客っていうのは残酷だ。
飛んだ売人の心配なんて、本当はしていない。
困るのは、自分の流れが切れることだけだ。
でも、それでいいと圭介は思っていた。
余計な感情を混ぜるより、その方が街の処理としては早いからだ。
問題は別の方だった。
レオが持ったまま消えた客の中に、“うるさいやつ”が2人いた。
金より先に騒ぐやつ。
女へ行くやつ。
店へ顔を出すやつ。
そういう客は面倒だ。
1人はサンシャイン通り寄りの若い男だった。
見た目は学生みたいだが、夜だけ急に別の顔になるやつ。
もう1人は西口のコンカフェ客だった。
普段は丁寧。
でも切れたら長文を何十件も送る。
そういう客ほど薬と相性が悪い。
薬にハマるというより、薬が切れた自分を処理できないからだ。
「うるさい2人、どうする」
神崎が聞く。
「先に口で切る」
「それでだめなら」
「だめなら別の名前出す」
別の名前。
圭介本人じゃなくてもいい。
後ろに誰かいるように見せるだけで静かになるやつは多い。
夜の池袋っていうのは、薬そのものより“誰の流れか”の方で止まることがある。
そこを間違えなければ、そこまで大きくならない。
明け方前、神崎から追加が来た。
『レオ、上板橋の安アパートに転がってたっぽい』
『でももう抜けてます』
圭介はその文を見て、少しだけ笑った。
上板橋。
池袋から少し離れているが、飛んだやつが身を隠すにはちょうどいい。
近すぎず、遠すぎない。
ネカフェより安い。
知り合いを1人くらいは頼れる。
そういう距離だ。
『荷物だけ残ってます』
『中、空』
それも予想どおりだった。
飛ぶやつは、大事なものだけ先に抜く。
空のバッグ。
安い服。
充電器の抜け殻。
そういうものだけ置いていく。
生活の抜け殻を残して、人間だけ先にいなくなる。
それも何回も見てきた。
でも今回は、客の流れも持っていった。
そこだけが、レオのいちばん悪いところだった。
「見つけます?」
神崎が送ってきた。
圭介はすぐには返さなかった。
見つけるのはできる。
でも、見つけたところでその先にいくらの金があるかを考える。
飛んだ売人を1人締めても、失った客の流れが全部戻るわけじゃない。
だったら客を先に拾う方が早い。
そういう計算を、自分がする側になっていることが、少しだけ嫌だった。
でも今さら、嫌だからやめるような仕事でもない。
『今日は拾い優先』
圭介はそう返した。
『レオは後でいい』
神崎の既読は早かった。
『了解』
朝5時過ぎ、西口の喫茶店で圭介は1人になった。
窓の外が少し白い。
始発が動く時間の池袋は、夜が終わるんじゃなくて、夜の人間が薄く溶けるだけだ。
薬の客も。
店の女も。
飛んだ売人も。
そのまま何でもなかった顔で昼の街へ混ざっていく。
レオも、多分そうやってどこかへ混ざるのだろうと思った。
若い顔のまま。
愛想のいいまま。
別の街か、別の売り先か、あるいはもっと下の方へ。
飛んだ売人の話っていうのは、本人が消えた瞬間に終わるんじゃない。
むしろそこから始まる。
残った客が動く。
残った番号が回る。
残った噂が別口へ流れる。
薬っていうのは、袋やシートより、その周りの流れの方がずっと長く街に残る。
圭介は冷めたコーヒーを飲んだ。
苦かった。
でも、池袋の朝にはそのくらいの味の方がちょうどいい気がした。
今夜もまた別の若い売人がどこかで立つだろう。
レオの代わりみたいな顔で。
そして客は、その顔が違うことに少し文句を言いながら、結局また同じ流れへ戻る。
この街で一番深いのは、薬でもヤクザでもないのかもしれないと圭介はたまに思う。
誰かが飛んでも、その日のうちに別の誰かで回り始めるところだ。




