61話 体入荒らし
最初は、小遣い稼ぎのつもりだった。
体入だけなら、その日で現金が出る。
店に合わなければ入らなければいい。
嫌なら帰ればいい。
そういう言い方を最初に覚えると、若い女は少しだけ安心する。
ちゃんと落ちるのは、その「嫌なら帰れる」を何回か使ったあとだ。
白石奈々は19歳。
池袋に来るようになって、まだ半年も経っていない。
最初は専門学校へ通うつもりだった。
美容系の学校。
でも学費がしんどくなって、家でも揉めて、バイトも続かなくて、結局いまはもう籍だけどうなってるのかよく分からない。
家は埼玉だ。
母親とは話していない。
父親はいてもいないみたいな人だった。
だから奈々にとって池袋は、逃げた先というより、帰らなくていい時間を潰せる街になっていた。
サンシャイン通りを歩く。
東口で座る。
西口へ流れる。
マルイ前で誰かを待つ。
終電を越えたらネカフェかカラオケ。
そういう、ちゃんと生活じゃない生活を少しずつ覚えた。
体入を教えたのは、知り合いの女だった。
知り合いと言っても、深くはない。
サンシャイン通りのカラオケ横で何度か顔を合わせて、朝方にドンキ前で一緒になったことがあるくらいの女だ。
「池袋、体入だけ回れば普通に出稼げるよ」
その言い方が軽かった。
「入らなきゃいいだけだし」
奈々は最初、それを賢いやり方みたいに思った。
入店はしない。
店に縛られない。
その日だけ金をもらって、合わなかったら次へ行く。
それなら自分で選んでいる感じがするからだ。
最初の体入は西口のガールズバーだった。
3時間で8000円。
ドリンクバックが少し。
帰りに封筒をもらう。
それだけで、コンビニのバイト何回分かの現金がその場で手に入った。
奈々はそこで一度、感覚を壊した。
ちゃんと働くより、こっちの方が早いと思ってしまったからだ。
次は東口のコンカフェ。
その次は北口寄りのガルバ。
次はサンシャイン通りから少し外れた小さい店。
店ごとに名前を変える。
年齢を少し動かす。
昼職の設定を変える。
彼氏はいないことにする。
お酒は強いことにする。
弱いことにする時もある。
客受けがいい方へ、話すたび少しずつ自分をずらしていく。
最初はそれがゲームみたいだった。
今日は“なつき”。
次は“りお”。
別の店では“まな”。
誰にも本当のことを言わなくていいのは、少し楽でもあった。
でも何回か繰り返していると、楽なはずのそれが逆に気持ち悪くなってくる。
どの店で何歳にしたか。
どこで何て言ったか。
誰に何の設定を出したか。
それを間違えると、客より先に店が嫌な顔をする。
「この前、別の名前でいなかった?」
東口の店で1回、そう言われたことがある。
奈々は笑ってごまかした。
「似てる子じゃないですか」
店長はそれ以上言わなかった。
でも、その日の日払いは少しだけ遅かった。
封筒を渡す時の手つきも、前より雑だった。
そういう小さい空気で、こっちが薄くバレていることは分かる。
それでも体入はやめなかった。
やめられなかったという方が近い。
なぜなら、現金がその日に出るからだ。
ネカフェ代。
カラオケ代。
コンタクト。
化粧品。
スマホ代の一部。
その日その日で必要なものに、体入の金はちょうどよかった。
でも、ちょうどよすぎる金って、人を腐らせる。
生活を立て直すには足りない。
でも今夜を越えるには十分。
そのくらいの額ばかりが、池袋には多かった。
奈々が“体入荒らし”って言葉を初めて聞いたのは、北口のガルバだった。
店の更衣室で、黒服の男と在籍の女が小さく話していた。
「またああいうの来たらうざいよね」
「体入荒らしみたいなやつ」
奈々はその時、着替えるふりをしながら聞いていた。
多分、自分のことだと思った。
でも顔には出さなかった。
……体入荒らし。
言葉にされると、少しだけショックだった。
自分では、ただその日ごとに金を作っているだけのつもりだったからだ。
でも店から見れば、入る気もなく、身分証のコピーだけ置いて、日払いだけ持って消える女だった。
荒らしと言われても仕方ないのかもしれなかった。
それでも奈々は次の日、また別の店へ行った。
東口のラブホ街寄り。
メンエスの顔をしているが、どこまでがメンエスかは曖昧な店だった。
面接の待ち合わせはマルイ前だった。
その明るさがまだ嫌だった。
明るい場所を入口にされると、自分がちゃんとまずい方へ入ってる感じが薄くなるからだ。
店の中で、女の人が言った。
「前もどっかいた?」
奈々はまた笑った。
「池袋よく来るんで」
その返しがもう、前より自然になっていた。
それが嫌だった。
嘘に慣れるって、こういうことなのだと思った。
その店は1本ついて、すぐ帰された。
「今日はこれで」
封筒は薄かった。
文句を言えるほどでもない。
でも、夜を越える金としては十分だった。
結局そのくらいで、人はまた別の店へ行く。
もっと出るかもしれないと思って。
もっとましな店があるかもしれないと思って。
そうやって何軒も回るうちに、自分の方がどんどん安くなっていく。
奈々はそれを分かっていた。
でも、分かったところで他にやり方もなかった。
家に帰れば母親がいる。
戻れば怒鳴られる。
学校へ戻る金も気力もない。
昼職の面接で履歴書を書くのもしんどい。
だったら池袋で、今日の分だけを作る方がまだ楽だった。
体入荒らしっていうのは、多分そういう女のことなんだろうと思った。
金が欲しいというより、今夜を普通の顔で終わらせたいだけの女のことを。
サンシャイン通りのカラオケ前で、前に教えてくれた女とまた会った。
22時くらい。
その女はコンビニの袋を下げていた。
「最近どこ回ってる?」
軽く聞かれる。
奈々は2軒くらい店名を言った。
女は少し笑った。
「もうだいぶ有名かもね」
その言い方が冗談っぽくて、少しだけきつかった。
「何が?」
「顔」
「このへんの店、狭いから」
奈々はその時、本気で少し焦った。
池袋って広い気がするのに、夜の店の情報は妙に狭く回る。
飛んだ女。
使えない黒服。
やばい客。
体入だけ回る若い子。
そういう情報は、顔と雰囲気だけで回っていく。
名前なんて本物じゃなくてもいい。
顔が残れば十分なのだ。
「じゃあどうすんの?」
奈々が聞くと、女は少しだけ間を置いた。
「北口の方ならまだあるかも」
「でも、あっちは深いよ」
深いよ。
その言い方が嫌だった。
何がどう深いのか説明しない言い方は、だいたい説明したくない内容の時だ。
でも、その夜の奈々にはそれを避ける余裕も薄かった。
所持金は7000円くらい。
ネカフェ代とご飯を引けば、すぐ消える。
明日もまた何かしないといけない。
そのループの中にいると、人は“深いよ”くらいでは止まれない。
数日後、奈々は北口のビルへいた。
面接じゃない。
もう“軽く見るだけ”と言われて、そのまま待機みたいな部屋に通された。
体入なのに、最初から衣装が出ている。
プロフィールの写真もその場で撮られる。
黒服が言う。
「今日いけるなら、そのままでも」
その時、奈々は少しだけ笑いそうになった。
そのままでも、って何だよと思ったからだ。
でも、そのままでもの方が、自分の今の生活には合っている気もした。
帰る場所もない。
明日の予定もない。
だったら、そのままでも別に困らない。
そう思えるところまで来ている自分の方が、少し怖かった。
その店を出た時、もう夜中だった。
北口の通りはまだ明るい。
コンビニ。
ホテル街。
ネカフェ。
立ってる女。
歩いてる男。
全部、いつも通りだった。
奈々だけが少し違って見えた。
前までは、体入だけ回っている女だと思っていた。
でも今は、どの店へ入って、どこで名前を変えて、どこまでやれば今夜が越せるかを先に考えている。
その考え方がもう、ちゃんと夜の人間だった。
体入荒らしっていうのは、多分、店を荒らしてるんじゃない。
何軒も回っているうちに、自分の元の生活の方を少しずつ荒らしてしまう女のことなんだろうと、奈々はその夜ようやく思った。
池袋はそういう街だった。
大きく壊れなくても、何軒か回っているうちに、ちゃんと戻りにくくなる。




