60話 マルイ前
マルイ前は、待ち合わせの顔をしている。
買い物帰り。
友達との合流。
仕事終わりの待ち合わせ。
そういう顔の人間が多いから、1人で立っていても浮きにくい。
だから由依は、その場所を指定された時、少しだけ安心した。
池袋北口の奥とか、ホテル街の近くとか、そういう場所じゃなかったからだ。
マルイ前ならまだ明るい。
人も多い。
変なことにはならない気がした。
その考え方がもう、少し遅かったのかもしれない。
由依は20歳だった。
家は練馬だったが、もう2週間帰っていない。
母親と喧嘩したあと最初は友達の家を転々として、そのうち友達にも気を使わせるのが面倒になって、カラオケとネカフェと安いホテルを渡るようになった。
金はほとんどなかった。
コンビニの夜勤をしていたが、遅刻が続いて、今はシフトを切られている。
口座に少しだけ残っていた金も、ネカフェ代とコンビニの食い物で減った。
スマホだけは止められなかった。
止まったら、連絡先も、居場所も、次の金の入口も全部消える気がしたからだ。
面接の話は、知り合いの女から来た。
知り合いといっても、仲がいいわけじゃない。
サンシャイン通りの近くで何度か顔を合わせて、深夜のファミレスで一緒になったことがあるくらいの女だった。
『すぐ入れる店あるよ』
『面接だけなら今日でも大丈夫だし、寮もある』
……寮。
その言葉だけで、由依は少しだけ救われた気がした。
帰る場所がない時、人は仕事より先に寝る場所の話に食いつく。
仕事の中身なんて、その次だ。
『どんな店?』
由依が送ると、返事は早かった。
『会って話した方が早いから、マルイ前で19時』
それで十分だった。
由依は17時半くらいから時間を潰していた。
コンビニで安いコーヒーを買って東口から西口へ抜けて、また戻って、19時ちょうどにマルイ前へ立った。
人が多い。
学生っぽい集団。
買い物袋を持った女。
スーツの男。
カップル。
誰もこっちを見ていない。
そのことが逆に少しだけ不安だった。
こういう場所では、誰も他人を見ない。
だから変な待ち合わせをしていても、誰にも止められない。
19時を少し回った頃、男が来た。
30代半ばくらい。
黒いジャケット。
派手ではない。
でも、夜の仕事に慣れている歩き方だった。
「由依ちゃん?」
声も普通だった。
優しそうでもないし、怖そうでもない。
そういう男が一番まずい。
最初から怖い顔をしているやつなら、由依ももう少し警戒したかもしれない。
「はい」
「ごめんね、待った?」
「大丈夫です」
男は少しだけ笑った。
「じゃあ、軽く話しながら行こうか」
行こうか、の時点で、もう面接の場所はここじゃないのだと由依にも分かった。
「場所……どこですか?」
「近いよ」
「店は、北口の方」
北口。
その単語で、由依は少しだけ足が止まりそうになった。
でも止まらなかった。
今さら、やっぱりやめます、とは言いにくかった。
言いにくくなるような場所を、最初の待ち合わせに選んでいるのだろうとも少し思った。
マルイ前なら、相手もちゃんとして見える。
自分も変な話を受けている感じが薄くなる。
そこから少し歩いて、気づけば北口の方へ流されている。
その順番だった。
男は歩きながら聞いた。
「今いくつだっけ?」
「20です」
「見た感じもうちょい若く見えるね」
由依は何も返さなかった。
そういう言い方をされると、褒められているのか、値踏みされているのか分からなくなる。
たぶん後者なのだろうと思った。
「経験ある?」
その質問は、由依が一番嫌いな聞き方だった。
仕事の話に見えて、体の話でもあるからだ。
「ちょっとだけ」
本当は、ちょっとでもなかった。
でも、全くないと言うと面倒そうだった。
だから半分だけ嘘をつく。
そういう小さい嘘が、この夜の中では自然になっていた。
男はうなずいた。
「じゃあ早いかもね」
その“早い”が何を指しているのか、由依は聞かなかった。
聞いたところで、答えは多分きれいじゃない。
だったら、分からないまま歩いた方が少しだけ楽だった。
マルイ前の明るさを抜けると、空気が少し変わる。
人はいる。
でも、待ち合わせしてる顔の人間が減る。
代わりに、目的を言わない顔のやつが増える。
雑居ビル。
コンビニ。
ホテル街へ曲がる角。
北口っていうのは、そういう通りのつなぎ方がうまいのだと由依は思った。
何でもない顔で歩いているうちに、少しずつ戻りにくい方へ寄っていく。
連れて行かれたのは、古いビルの4階だった。
表の看板には、バーみたいな名前が出ている。
でも、入口の感じが違う。
店の入口というより、部屋のドアみたいだった。
男がノックする。
中から、すぐに鍵が開いた。
出てきたのは女だった。
30代後半くらい。
メイクが濃い。
でも店の女の感じではない。
もっと管理する側の女だった。
「この子?」
男がうなずく。
「一応そう」
「入って」
由依は中へ入った。
廊下が短い。
すぐに小さい待機室みたいな部屋がある。
ソファ。
ドレッサー。
安い香水の匂い。
壁紙は張り替えたばかりみたいに見えるのに、空気だけ古い。
そのアンバランスさが少し気持ち悪かった。
「面接って」
由依が言うと、女は笑った。
「そんな固いもんじゃないよ」
「ちょっと話して、いけそうなら今日からでも」
今日からでも。
その言葉で、由依は初めて少しだけ怖くなった。
面接って、本当はもう少し段取りがあるものじゃないのかと思ったからだ。
履歴書とか。
店の説明とか。
せめて名前とか。
でも、この店にはそういう普通の手順がなかった。
ただ、人が来て、少し見て、使えるなら置く。
そういう感じだけが露骨にあった。
「お店って……」
「何系とか気にする?」
女が先に聞いた。
由依は黙った。
気にするに決まってる。
でも、ここで気にしますと言ったら、じゃあ帰れば、で終わる気もした。
帰れば、また寝る場所も金もない夜に戻る。
その計算が、返事の前にもう頭へ出ていた。
「……あんまり」
女はそれを聞いて、少しだけ笑った。
分かっている笑い方だった。
帰れない子の返事だと、最初から分かっていた顔だった。
「じゃあ平気だよ」
「うち、届出とか出してる大きいとこじゃないから、そういうの気にする子は向かないけど」
その言い方は軽かった。
でも内容は軽くなかった。
届出とか出してる大きいとこじゃない。
つまり、そういうことだった。
由依はそこで初めて、この店がちゃんと無許可の側なのだと理解した。
理解したのに、その場で立てなかった。
立てなかった理由も、自分で分かっていた。
今ここを出ても、次の場所がないからだ。
女は由依の顔を見ながら言った。
「寮あるし」
「今日出るなら、そのまま泊まれる」
「日払いもできる」
その順番がずるかった。
仕事の説明じゃない。
先に寝床と現金を出してくる。
必要なものを先に並べられると、人は危ない話でも正面から嫌がりにくい。
男はもうほとんど喋らなかった。
連れてくるまでが仕事なのだろう。
壁にもたれてスマホを見ている。
由依は鏡の前に座らされた。
「メイク直せる?」
女が聞く。
「一応」
「下手ならあとでやるから」
そう言って、由依の顔を鏡越しに見る。
目元。
口元。
首。
腕。
全部を一瞬で値踏みする目だった。
由依はその視線で、もう面接なんかではないのだと分かった。
商品になるかを見られているだけだ。
でも、その感覚に怒る余裕も薄かった。
怒ったところで、自分の財布は増えない。
夜を越える場所もない。
そう思うと、人は思っているより簡単に黙る。
「名前、変えるからね」
女が言う。
「本名じゃなくていいし」
「年も、ちょっと下で出すかも」
それもまた軽かった。
名前を変える。
年を少し動かす。
そんなことが、メイク直すのと同じくらいの軽さで話される。
その軽さが一番怖かった。
「私、今日からなんですか」
由依がやっと聞くと、女は首をかしげた。
「今日出ないでいつ出るの」
それが答えだった。
ここでは面接と入店の間に、考えるための時間なんて用意されていない。
考えさせると帰る子がいるのだろう。
だから、来たらそのまま置く。
置ける子だけ置く。
そういう流れだった。
由依は少しだけスマホを見た。
母親からの連絡はない。
友達からもない。
知り合いの女からだけ、一言来ていた。
『どう?』
由依はそれに返事をしなかった。
“どう”も何もないと思ったからだ。
マルイ前で待っていた自分に、今のこの部屋の空気は全然似合っていない気がした。
でも、多分もう、あの場所へ戻っても前と同じ顔では立てない。
それが分かった。
「出るならシャワー先ね」
女が言った。
「着るのはあとで出すから」
男はその時だけ、由依を見て短く言った。
「大丈夫だよ」
その“大丈夫”が一番信用できなかった。
でも、そう言われると少しだけ従いやすくもなる。
だから使うのだろうと思った。
由依は小さいシャワー室へ通された。
ドアを閉める。
鏡がある。
狭い。
安いボディソープの匂い。
そこだけがやけに生活感がある。
服を脱ぎながら、由依は少しだけマルイ前を思い出した。
明るかった。
人が多かった。
買い物帰りみたいな顔の人間がたくさんいた。
その中で待っていた時は、まだ“面接”という言葉を信じる余地があった。
でも、明るい場所の待ち合わせほど、その先のまずさを隠すにはちょうどいいのかもしれない。
シャワーを浴びても、怖さは落ちなかった。
でも、怖いからやめる、という段階はもう過ぎていた。
そういう時、人は多分本当に落ちていく。
ひどい目に遭った瞬間じゃない。
戻れるのに戻らないんじゃなくて、戻ったあとの現実の方がもっと嫌だから、このまま進む方を選ぶ時だ。
由依は髪を雑に拭いて、シャワー室のドアを開けた。
女が小さいバッグを渡してくる。
「それ、今日の分」
中には安っぽい下着と、香水と、小さいメイク道具だけが入っていた。
店の女の顔になるためのものだけが、最初からひとまとめになっている。
それを受け取った瞬間、由依は自分が入店したのだと、ようやくはっきり分かった。
面接じゃなかった。
待ち合わせの時点でもう、だいぶ決まっていたのだ。
マルイ前っていうのは、そういう夜にちょうどよすぎる場所なのかもしれない。
明るい。
人が多い。
だから、これから無許可の風俗へ連れていかれる若い女が立っていても、ただの待ち合わせにしか見えない。
その普通さが、一番この街らしい部分だった。




