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リセット  作者: ナオ
60/79

60話 マルイ前

 マルイ前は、待ち合わせの顔をしている。

 

 買い物帰り。

 友達との合流。

 仕事終わりの待ち合わせ。

 

 そういう顔の人間が多いから、1人で立っていても浮きにくい。

 

 だから由依は、その場所を指定された時、少しだけ安心した。

 

 池袋北口の奥とか、ホテル街の近くとか、そういう場所じゃなかったからだ。

 

 マルイ前ならまだ明るい。

 人も多い。

 変なことにはならない気がした。

 

 その考え方がもう、少し遅かったのかもしれない。

 

 由依は20歳だった。

 

 家は練馬だったが、もう2週間帰っていない。

 母親と喧嘩したあと最初は友達の家を転々として、そのうち友達にも気を使わせるのが面倒になって、カラオケとネカフェと安いホテルを渡るようになった。

 

 金はほとんどなかった。

 コンビニの夜勤をしていたが、遅刻が続いて、今はシフトを切られている。

 

 口座に少しだけ残っていた金も、ネカフェ代とコンビニの食い物で減った。

 

 スマホだけは止められなかった。

 止まったら、連絡先も、居場所も、次の金の入口も全部消える気がしたからだ。

 

 面接の話は、知り合いの女から来た。

 知り合いといっても、仲がいいわけじゃない。

 

 サンシャイン通りの近くで何度か顔を合わせて、深夜のファミレスで一緒になったことがあるくらいの女だった。

 

『すぐ入れる店あるよ』 

『面接だけなら今日でも大丈夫だし、寮もある』

 

 ……寮。

 

 その言葉だけで、由依は少しだけ救われた気がした。

 

 帰る場所がない時、人は仕事より先に寝る場所の話に食いつく。

 

 仕事の中身なんて、その次だ。

 

『どんな店?』

 

 由依が送ると、返事は早かった。

 

『会って話した方が早いから、マルイ前で19時』

 

 それで十分だった。

 由依は17時半くらいから時間を潰していた。

 

 コンビニで安いコーヒーを買って東口から西口へ抜けて、また戻って、19時ちょうどにマルイ前へ立った。

 

 人が多い。

 学生っぽい集団。

 買い物袋を持った女。

 スーツの男。

 カップル。

 誰もこっちを見ていない。

 

 そのことが逆に少しだけ不安だった。

 こういう場所では、誰も他人を見ない。

 だから変な待ち合わせをしていても、誰にも止められない。

 

 19時を少し回った頃、男が来た。

 30代半ばくらい。

 黒いジャケット。

 派手ではない。

 

 でも、夜の仕事に慣れている歩き方だった。

 

「由依ちゃん?」

 

 声も普通だった。

 優しそうでもないし、怖そうでもない。

 

 そういう男が一番まずい。

 

 最初から怖い顔をしているやつなら、由依ももう少し警戒したかもしれない。

 

「はい」

 

「ごめんね、待った?」

 

「大丈夫です」

 

 男は少しだけ笑った。

 

「じゃあ、軽く話しながら行こうか」

 

 行こうか、の時点で、もう面接の場所はここじゃないのだと由依にも分かった。

 

「場所……どこですか?」

 

「近いよ」

「店は、北口の方」

 

 北口。

 その単語で、由依は少しだけ足が止まりそうになった。

 

 でも止まらなかった。

 今さら、やっぱりやめます、とは言いにくかった。

 

 言いにくくなるような場所を、最初の待ち合わせに選んでいるのだろうとも少し思った。

 

 マルイ前なら、相手もちゃんとして見える。

 自分も変な話を受けている感じが薄くなる。

 

 そこから少し歩いて、気づけば北口の方へ流されている。

 

 その順番だった。

 男は歩きながら聞いた。

 

「今いくつだっけ?」

 

「20です」

 

「見た感じもうちょい若く見えるね」

 

 由依は何も返さなかった。

 そういう言い方をされると、褒められているのか、値踏みされているのか分からなくなる。

 

 たぶん後者なのだろうと思った。

 

「経験ある?」

 

 その質問は、由依が一番嫌いな聞き方だった。

 仕事の話に見えて、体の話でもあるからだ。

 

「ちょっとだけ」

 

 本当は、ちょっとでもなかった。

 でも、全くないと言うと面倒そうだった。

 

 だから半分だけ嘘をつく。

 そういう小さい嘘が、この夜の中では自然になっていた。

 

 男はうなずいた。

 

「じゃあ早いかもね」

 

 その“早い”が何を指しているのか、由依は聞かなかった。

 

 聞いたところで、答えは多分きれいじゃない。

 だったら、分からないまま歩いた方が少しだけ楽だった。

 

 マルイ前の明るさを抜けると、空気が少し変わる。

 

 人はいる。

 でも、待ち合わせしてる顔の人間が減る。

 代わりに、目的を言わない顔のやつが増える。

 

 雑居ビル。

 コンビニ。

 ホテル街へ曲がる角。

 北口っていうのは、そういう通りのつなぎ方がうまいのだと由依は思った。

 

 何でもない顔で歩いているうちに、少しずつ戻りにくい方へ寄っていく。

 

 連れて行かれたのは、古いビルの4階だった。

 表の看板には、バーみたいな名前が出ている。

 

 でも、入口の感じが違う。

 

 店の入口というより、部屋のドアみたいだった。

 

 男がノックする。

 中から、すぐに鍵が開いた。

 

 出てきたのは女だった。

 30代後半くらい。

 メイクが濃い。

 でも店の女の感じではない。

 

 もっと管理する側の女だった。

 

「この子?」

 

 男がうなずく。

 

「一応そう」

 

「入って」

 

 由依は中へ入った。

 廊下が短い。

 すぐに小さい待機室みたいな部屋がある。

 

 ソファ。

 ドレッサー。

 安い香水の匂い。

 壁紙は張り替えたばかりみたいに見えるのに、空気だけ古い。

 

 そのアンバランスさが少し気持ち悪かった。

 

「面接って」

 

 由依が言うと、女は笑った。

 

「そんな固いもんじゃないよ」

「ちょっと話して、いけそうなら今日からでも」

 

 今日からでも。

 

 その言葉で、由依は初めて少しだけ怖くなった。

 面接って、本当はもう少し段取りがあるものじゃないのかと思ったからだ。

 

 履歴書とか。

 店の説明とか。

 せめて名前とか。

 でも、この店にはそういう普通の手順がなかった。

 

 ただ、人が来て、少し見て、使えるなら置く。

 そういう感じだけが露骨にあった。

 

「お店って……」

 

「何系とか気にする?」

 

 女が先に聞いた。

 由依は黙った。

 気にするに決まってる。

 でも、ここで気にしますと言ったら、じゃあ帰れば、で終わる気もした。

 

 帰れば、また寝る場所も金もない夜に戻る。

 その計算が、返事の前にもう頭へ出ていた。

 

「……あんまり」

 

 女はそれを聞いて、少しだけ笑った。

 分かっている笑い方だった。

 

 帰れない子の返事だと、最初から分かっていた顔だった。

 

「じゃあ平気だよ」

 

「うち、届出とか出してる大きいとこじゃないから、そういうの気にする子は向かないけど」

 

 その言い方は軽かった。

 でも内容は軽くなかった。

 届出とか出してる大きいとこじゃない。

 

 つまり、そういうことだった。

 

 由依はそこで初めて、この店がちゃんと無許可の側なのだと理解した。

 

 理解したのに、その場で立てなかった。

 立てなかった理由も、自分で分かっていた。

 今ここを出ても、次の場所がないからだ。

 女は由依の顔を見ながら言った。

 

「寮あるし」

 

「今日出るなら、そのまま泊まれる」

 

「日払いもできる」

 

 その順番がずるかった。

 仕事の説明じゃない。

 先に寝床と現金を出してくる。

 必要なものを先に並べられると、人は危ない話でも正面から嫌がりにくい。

 

 男はもうほとんど喋らなかった。

 連れてくるまでが仕事なのだろう。

 壁にもたれてスマホを見ている。

 由依は鏡の前に座らされた。

 

「メイク直せる?」

 

 女が聞く。

 

「一応」

 

「下手ならあとでやるから」

 

 そう言って、由依の顔を鏡越しに見る。

 

 目元。

 口元。

 首。

 腕。

 

 全部を一瞬で値踏みする目だった。

 由依はその視線で、もう面接なんかではないのだと分かった。

 

 商品になるかを見られているだけだ。

 でも、その感覚に怒る余裕も薄かった。

 

 怒ったところで、自分の財布は増えない。

 夜を越える場所もない。

 そう思うと、人は思っているより簡単に黙る。

 

「名前、変えるからね」

 

 女が言う。

 

「本名じゃなくていいし」

「年も、ちょっと下で出すかも」

 

 それもまた軽かった。

 

 名前を変える。

 年を少し動かす。

 そんなことが、メイク直すのと同じくらいの軽さで話される。

 

 その軽さが一番怖かった。

 

「私、今日からなんですか」

 

 由依がやっと聞くと、女は首をかしげた。

 

「今日出ないでいつ出るの」

 

 それが答えだった。

 ここでは面接と入店の間に、考えるための時間なんて用意されていない。

 

 考えさせると帰る子がいるのだろう。

 だから、来たらそのまま置く。

 置ける子だけ置く。

 そういう流れだった。

 由依は少しだけスマホを見た。

 母親からの連絡はない。

 友達からもない。

 知り合いの女からだけ、一言来ていた。

 

『どう?』

 

 由依はそれに返事をしなかった。

 “どう”も何もないと思ったからだ。

 

 マルイ前で待っていた自分に、今のこの部屋の空気は全然似合っていない気がした。

 

 でも、多分もう、あの場所へ戻っても前と同じ顔では立てない。

 

 それが分かった。

 

「出るならシャワー先ね」

 

 女が言った。

 

「着るのはあとで出すから」

 

 男はその時だけ、由依を見て短く言った。

 

「大丈夫だよ」

 

 その“大丈夫”が一番信用できなかった。

 でも、そう言われると少しだけ従いやすくもなる。

 

 だから使うのだろうと思った。

 由依は小さいシャワー室へ通された。

 

 ドアを閉める。

 鏡がある。

 狭い。

 安いボディソープの匂い。

 

 そこだけがやけに生活感がある。

 服を脱ぎながら、由依は少しだけマルイ前を思い出した。

 

 明るかった。

 人が多かった。

 買い物帰りみたいな顔の人間がたくさんいた。

 

 その中で待っていた時は、まだ“面接”という言葉を信じる余地があった。

 

 でも、明るい場所の待ち合わせほど、その先のまずさを隠すにはちょうどいいのかもしれない。

 

 シャワーを浴びても、怖さは落ちなかった。

 でも、怖いからやめる、という段階はもう過ぎていた。

 

 そういう時、人は多分本当に落ちていく。

 ひどい目に遭った瞬間じゃない。

 

 戻れるのに戻らないんじゃなくて、戻ったあとの現実の方がもっと嫌だから、このまま進む方を選ぶ時だ。

 

 由依は髪を雑に拭いて、シャワー室のドアを開けた。

 

 女が小さいバッグを渡してくる。

 

「それ、今日の分」

 

 中には安っぽい下着と、香水と、小さいメイク道具だけが入っていた。

 

 店の女の顔になるためのものだけが、最初からひとまとめになっている。

 

 それを受け取った瞬間、由依は自分が入店したのだと、ようやくはっきり分かった。

 

 面接じゃなかった。

 待ち合わせの時点でもう、だいぶ決まっていたのだ。

 

 マルイ前っていうのは、そういう夜にちょうどよすぎる場所なのかもしれない。

 

 明るい。

 人が多い。

 

 だから、これから無許可の風俗へ連れていかれる若い女が立っていても、ただの待ち合わせにしか見えない。

 

 その普通さが、一番この街らしい部分だった。

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