57話 お金
金がないというより、現金がない夜だった。
口座には少し残っている。
でも引き落としの予定がある。
給料日も近い。
数字だけ見れば、完全に終わっているわけじゃない。
それでも今夜、手元に1万円札が1枚もないだけで、人は急に弱くなる。
北口のATM前で、小田桐涼は財布の中をもう1回見た。
小銭。
レシート。
古いポイントカード。
曲がった千円札が1枚。
それだけ。
時刻は23時18分。
池袋北口のATMコーナーは、夜でも妙に明るい。
明るいのに、そこへ立っている人間はだいたい暗い顔をしている。
酔ってるやつ。
急いでるやつ。
スマホを見ながら残高だけ確認するやつ。
そして、下ろすかどうか迷っているやつ。
涼は26歳。
昼は池袋西口の小さい不動産屋で働いている。
営業というほどでもない。
雑用というほど軽くもない。
中途半端に何でもやる立場だった。
給料は少ない。
でも、食えないほどでもない。
そこが一番まずい。
人って、本当にゼロになる前の方が、変な金の作り方に手を出しやすいからだ。
家賃は払った。
スマホ代も落ちた。
問題は、今月の立て替えだった。
会社の先輩と飲んだ金。
彼女でもない女に見栄で出したタクシー代。
あと、先週負けたパチスロの分。
全部たいした額じゃなかった。
でも、たいした額じゃないものばかり重なると、手元の現金から先に消える。
それで今、財布の中には千円札が1枚しかなかった。
ATMで下ろせばいい。
それだけの話だった。
でも、下ろした瞬間、来週の自分がまた少し苦しくなるのが分かる。
その感覚が嫌で、涼は5分くらいATMの前で立ったままになっていた。
北口のATMっていうのは、金を引き出す場所というより、自分がどこまで崩れてるかを見る場所なのかもしれないと、涼はたまに思う。
同じ会社の先輩に言われたことがあった。
「金ない時ほど、現金で持っとけ」
「口座の数字は嘘つくから」
その意味が最近、少し分かる。
口座に残ってる数字は、まだ大丈夫な顔をしている。
でも現金がないと、コンビニで酒を買う時も、終電を逃した時も、誰かに少し貸してと言われた時も、全部が急に情けなくなる。
涼が迷っていると、後ろから声がした。
「下ろさないんすか」
振り向くと、知っている顔だった。
高木隼人。
28歳。
前に同じ不動産屋で働いていて、3か月で辞めた男だ。
辞めたというより、飛んだに近い。
ある日から来なくなって、そのあと池袋のどこかで別の金の回し方を覚えた顔になって戻ってきた。
服は前より少しだけ良くなっていた。
時計も少しだけ高そうだった。
でも、笑い方は前より安くなっていた。
「まあ」
涼がそう返すと、隼人はATMの横に立った。
「分かる」
「下ろしたくないっすよね」
その言い方が妙に自然で、涼は少しだけ嫌な気がした。
こういう時に分かると言ってくる男は、大体その先の話を持っているからだ。
「今何してんの」
涼が聞くと、隼人は肩をすくめた。
「色々」
「池袋?」
「まあ、この辺」
その“色々”が何かは言わない。
でも、隠す気も薄い。
そういう男は一番まずい。
悪いことをしてる自覚があるのに、それをちゃんと危ない顔では持っていないからだ。
「まだあの会社いるんすね」
「一応」
「偉いな」
偉い、という言い方が少し腹立たしかった。
でも、腹立たしいと思った時点で、向こうの方が少し自由に見えているのだと涼も分かった。
会社に残って安い給料で上司に頭を下げてる自分より、何してるか曖昧な隼人の方が少し楽そうに見える。
そこが一番危ない。
「今日、金ないんすか」
隼人が聞いた。
「別に」
「別にって顔じゃないっすよ」
その返しで、涼は少しだけ笑った。
悔しかったからだ。
図星だったからでもある。
隼人はそれを見て、少し声を落とした。
「今夜だけなら、軽いのあるっすよ」
来た、と思った。
やっぱりそうだ。
分かる、の次には大体それが来る。
「何」
「受け取り」
またその言葉かと涼は思った。
池袋の夜って、何でも軽く言い換える。
受け取り。
立ち会い。
確認。
案内。
回収。
全部、本当の名前を避けるための言葉だ。
「いくら」
気づいたら、そう聞いていた。
それが一番嫌だった。
中身より先に値段を聞く。
でも、現金がない夜ってそうなる。
正しいかどうかより、いくらで今夜を埋められるかの方が先に来る。
「今日なら2」
2万。
高くない。
でも安くもない。
今の涼には、すごく現実的な額だった。
家賃が飛ぶほどではない。
でも、ATMで迷ってる自分には十分すぎる。
「何受け取るの」
隼人は少しだけ笑った。
「そこは知らなくていいやつ」
「じゃあやらねえよ」
「別に危なくないっすよ」
危なくない2万なんてあるかと、涼は思った。
でも、その言葉は飲み込んだ。
思っている時点で、もう半分は乗っているからだ。
「ロッカー」
隼人が言った。
「駅じゃないです」
「ビルの中のやつ」
「封筒取って、別の場所へ持ってくだけ」
それだけ。
それだけと言われる時ほど、あとでちゃんと残る。
涼はATMの画面を見た。
残高照会の文字が出ている。
暗証番号を入れれば、金は下ろせる。
でも、その金は自分の口座から減る。
隼人の話に乗れば、今夜の現金は増える。
その違いだけが、妙に生々しかった。
「今じゃないとだめ?」
「今だから2です」
「明日なら多分1」
その言い方も嫌だった。
人が迷う時間ごと値段にされている感じがするからだ。
結局、涼はATMで金を下ろさなかった。
隼人について歩いた。
その時点で、多分もう負けていたのだと思う。
北口の明るい通りを少し外れる。
ホテル街へ入る手前。
コンビニと古い雑居ビルの間。
ビルの2階に、小さい私物ロッカーみたいな列があった。
コインロッカーでもない。
会員制の荷物置き場みたいな顔をしている。
でも、こんな時間に使ってるやつはどう見ても普通じゃない。
「17番」
隼人が言った。
「これで開ける」
小さい鍵を渡される。
涼は少しだけ躊躇した。
鍵っていうのは、金より嫌だ。
開ける時点で、自分の手が1回ちゃんと入るからだ。
17番を開ける。
中に茶色い封筒がある。
軽い。
でも中は少し硬い。
「それ持って、東口のコインロッカー」
「番号はあとで送る」
隼人はそれだけ言った。
「中見んなよ」
「見ねえよ」
涼は答えた。
でも、本当は少し見たかった。
2万の中身を知らないまま運ぶのは、逆に気持ちが悪いからだ。
でも、見たらもっと戻れない感じもする。
そういう線だけは、まだ少し残っていた。
東口へ回る途中、サンシャイン通りの入口を通った。
若い集団がいる。
買い物帰りの女もいる。
ゲームセンターの袋を持った男もいる。
みんな、普通の夜の顔をしている。
自分も少し前まで、そっちの顔だった気がした。
でも今は、封筒ひとつ持って歩くだけで、急に違う側へずれた感じがする。
東口のロッカー前で、隼人から番号が来た。
『342』
『入れたら写真』
それだけ。
涼はロッカーを開けた。
封筒を入れる。
鍵を回す。
写真を撮る。
送る。
それで終わった。
本当に、それだけだった。
誰かと会ったわけじゃない。
怒鳴られたわけでもない。
中身も見ていない。
なのに、妙に気分が悪かった。
人って、悪いことをした時より、
何を運んだか分からないまま金だけもらう時
の方が、深いところが冷えるのかもしれないと涼は思った。
隼人からすぐ返信が来た。
『OK』
『今から行ける?』
何が、とは書いてない。
でも次がある文だった。
『現金渡す』
涼はその文を見て、少しだけ笑った。
現金。
結局、今夜一番欲しかったものだ。
ATMで下ろさなかった金が、別のルートで自分の手に来る。
それが少し面白くて、ちゃんと気持ち悪かった。
受け取ったのは北口のコンビニ裏だった。
隼人は茶封筒から2万円だけ出して渡した。
「ほら」
それだけ。
抜かれてる感じもない。
ちゃんと2万ある。
そこも逆に嫌だった。
雑に騙されるより、きちんと約束の金が出る方が、次も行きやすいからだ。
「またある?」
自分でも嫌になるくらい自然に、涼はそう聞いていた。
隼人は少しだけ笑った。
「金いる時は連絡してください」
それで終わりだった。
帰り道、涼はATMの前をもう一度通った。
さっきと同じ明るさ。
同じ機械音。
同じように迷ってるやつもいる。
でも、自分だけが少し違って見えた。
もう残高を見る必要がなくなったからじゃない。
現金が手に入ったからだ。
それが一番まずかった。
欲しかったものが、ちゃんと夜の方から届いてしまったからだ。
お金っていうのは、多分、たくさんある時よりも今夜の2万が欲しい時の方が人を曲げる。
生活を立て直す金じゃない。
借金を全部消す金でもない。
ただ、今夜の情けなさを少し隠せるだけの額。
そのくらいの金額に、人は思ってるより弱い。




