55話 後ろの名前
店に顔を出すのは月に1回あるかないかだ。
それでも、揉めた時に一番先に出るのは高瀬の名前だった。
「そこ、誰が見てるの」
客がそう聞いた時。
別口の半端なやつが位置を探る時。
飛んだ女を客がしつこく追う時。
店長が払うものを後回しにした時。
全部、最後はそこへ来る。
高瀬が何をしたかじゃない。
高瀬の後ろに何がいるように見えるか、それだけで話は少し静かになる。
高瀬聡は38歳だった。
池袋北口の雑居ビル3階にある、表向きは不動産の事務所へ昼過ぎに顔を出す。
スーツは着ない。
でもラフすぎる格好もしない。
黒いシャツ。
暗い色のジャケット。
革靴だけは少し高そうに見えるもの。
そういう格好が一番ちょうどいい。
堅気にも見えるし、違う側にも見えるからだ。
高瀬は組の看板を背負って歩いているわけじゃない。
刺青も見せない。
怒鳴らない。
殴るところもほとんど見せない。
でも北口のメンエス、ガルバ、怪しいバー、そういう店の何軒かに「後ろの名前」としてついていた。
ケツ持ち、という言葉を高瀬は自分では使わない。
あまりにもそのままだからだ。
でも実際にやっていることは、それに近い。
店の後ろにいる。
毎日はいない。
でも、いざとなれば名前が出る。
その名前だけを、月の金で貸している。
最初にその仕組みを教えたのは、もう引いた古い男だった。
「前に立つな」
「前に立つと安くなる」
「名前だけ貸せ」
「顔まで出すのは最後でいい」
その言葉どおりだった。
前に立って怒鳴るやつは、1回は効く。
でも2回目からは、怒鳴るだけの男として値段が落ちる。
本当に使えるのは、普段は見えなくて、たまにしか出てこない名前の方だった。
事務所には、その日も神崎がいた。
40手前。
黒いスーツではなく、作業着でもいけるような中途半端な服装。
店と店の間を動くには、その中途半端さが便利だった。
「北口のメンエス、また客がうるさいです」
高瀬は煙草に火をつけながら聞いた。
「どこ?」
「フェリスで」
「未収?」
「いや、女です」
そこで高瀬は少しだけ目を上げた。
女で揉める話は金より面倒なことが多い。
金だけなら数字で終わる。
でも女が絡むと、客の感情が長引く。
長引くやつほど、店の前へ立つし、口コミも書くし、妙な正義感まで持ち始める。
「何した?」
「店外で揉めて、そのあと客がしつこいです」
「女は?」
「もう出してないです」
「客は?」
「会社持ちっぽいです」
そこまで聞いて、高瀬は少しだけうなずいた。
会社持ちの男は面倒だが、折れる時は早い。
家も会社もあるやつは、全部を表へ出されたくないからだ。
「名前出した?」
「まだです」
「じゃあ先に出せ」
神崎はすぐ分かった顔をした。
「どういう言い方で」
「こっちで見てるでいい」
「俺の名前は出していいから」
その会話だけで十分だった。
高瀬が直接行く必要はない。
まずは「見てる側がいる」と思わせる。
それで静かになるやつは多い。
静かにならないやつだけ、次の段へ上げる。
それが順番だった。
高瀬は昔、実際に前へ出ていた時期もある。
西口の方で揉めた客を外へ引っ張ったこともある。
飛んだ黒服を探しに行ったこともある。
でも今は違う。
名前が値段になる位置まで来ると、自分でやることは減る。
代わりに、誰にどこまで自分の名前を使わせるか、その管理の方が大事になる。
それを間違えると安くなる。
安くなると、ただの怖い人で終わる。
そうなるのが一番ださいと高瀬は思っていた。
夕方、神崎と一緒に北口の店を1軒回った。
店名は表に出ているが、まともな店ではない。
メンエスの顔はしている。
でも中で何がどこまで行われているかは、その日の客と女次第だった。
高瀬は階段を上がる時も急がない。
ここで急ぐと、現場に火がついている感じが出る。
それはよくない。
店の前へ着くと、黒服の若い男がすぐ頭を下げた。
「お疲れ様です」
若い男は24か25くらいだろう。
顔は悪くない。
でも、寝不足と酒と夜の空気で、肌だけが少し濁っている。
こういう男は多い。
まだ堅気に戻れそうなのに、戻るタイミングだけを逃している顔。
「客どこまで言ってきた?」
高瀬が聞くと、若い男はスマホを見せた。
長文のLINE。
『返金してほしい』
『本人と話したい』
『店の対応おかしいだろ』
『そっちも責任あるよね』
その文面に、高瀬は少しだけ笑いそうになった。
こういう男は、最初は必ず正論の形を取る。
怒っているんじゃない。
被害者として話している顔をする。
でも本当に怖いのは、その正しさが通らないと分かったあとだ。
急に言葉が汚くなる。
店の前へ来る。
会社の顔と夜の顔が混ざる。
そこまで行かせると面倒になる。
「まだ来てないなら今でいいや」
高瀬は若い黒服に言った。
「返せ」
「何て返しますか?」
「高瀬が見てるでいい」
若い男は少しだけ緊張した顔になった。
自分の指で、別の名前を打つ時の顔だった。
それも分かる。
人の名前を借りるっていうのは、それだけで少し怖い。
でも、その怖さを向こうの客にも移したいのだから、ちょうどいい。
若い男がLINEを打つ。
『これ以上は高瀬が見ていますので、個人でのやり取りは止めてください。必要ならこちらで話を聞きます』
高瀬はその文を見て、少しだけ直させた。
「必要なら、いらない」
「“こちらで判断します”にしろ」
神崎が横で笑った。
「そっちの方が嫌ですね」
「嫌な方がいい」
高瀬は短く言った。
相手に話し合いの余地を見せると長引く。
判断はこちら、までで止める方がいい。
客はその文を受けて、しばらく返信しなかった。
そして15分後、短く返ってきた。
『分かりました』
それだけだった。
若い黒服が露骨に息を吐いた。
「効くんですね」
「今はな」
高瀬はそう言った。
今は……だ。
名前は使いすぎると効かなくなる。
だから店の人間は、すぐに「誰それがついてる」と言いたがるが、それを毎回やると安くなる。
薬と同じだ。
強いのは、たまにしか出さないから効く。
店を出たあと、神崎が煙草を吸いながら言った。
「でも、最近は名前だけじゃ引かないのもいますよね」
「いるな」
「そういうの、どう見ます?」
高瀬は北口の通りを見た。
ホテルへ入る男女。
立ってる女。
コンビニで酒を買う若い男。
全部、何でもない夜の顔をしている。
「名前で引かないやつは、名前じゃないもので引かせるだけだ」
神崎は何も言わなかった。
その先を知っているからだ。
勤め先。
家。
妻。
動画。
夜の顔を表へ持っていく材料。
高瀬の仕事は、殴ることじゃない。
名前で引かないやつに、次に何が効くかを順番につけることだった。
22時過ぎ、別の店から連絡が来た。
今度はコンカフェだった。
若い女が飛んだ。
しかも前借りみたいな金が少し絡んでいる。
店長が慌てている。
「そっちはどういう話だ?」
高瀬が電話で聞くと、向こうの店長は早口だった。
『いや、大した額じゃないんですけど』
『常連客もちょっとしつこくて』
大した額じゃない。
その言い方もよくある。
大した額じゃない時ほど、向こうは感情で来る。
女に裏切られたと思っている客は、金額じゃなく体面で怒るからだ。
「俺の名前は出すな」
高瀬は言った。
『え』
「そっちはまだ早い」
店によって違う。
このコンカフェみたいに若い客が多いところで高瀬の名前を出しても、逆に面白がられる時がある。
“誰だよそれ”で終わるやつもいる。
そういう場所では、名前より別のやり方がいる。
「店長、お前が店閉めろ」
「今日は女、表に出すな」
「予約の常連客には返金で切れ」
『でも』
「そこで渋るから面倒になる」
金で終わる話に名前を使うな。
それも高瀬なりの線引きだった。
全部に自分の名前を貸すわけじゃない。
貸した方が高くつく時だけ使う。
そこを間違えないから、まだ値段が落ちていないのだと思っていた。
日付が変わる頃、神崎と別れて高瀬は1人で北口の裏を歩いた。
この時間の池袋は、明るいくせに顔がない。
客も。
女も。
黒服も。
スカウトも。
誰も本当の名前で立っていない感じがする。
その中で、自分だけが「後ろの名前」として機能しているのが少し滑稽でもあった。
名前だけ貸す。
それは結局、自分自身を使っているのではない。
自分の後ろに、もっと大きいものがいるように見せる商売だ。
本当にいるかどうかは、毎回は関係ない。
相手がそう見れば十分だからだ。
そこがこの仕事の、一番汚いところかもしれないと高瀬は思う時がある。
暴力そのものじゃない。
でも暴力の影だけを先に歩かせる。
影で相手を止める。
それが効くうちは、自分は前へ出なくていい。
前へ出なくていいぶん、汚れていない顔もできる。
でも本当は逆だ。
殴るやつより、名前だけ貸して止めるやつの方が、長く人の生活へ入り込む。
翌朝、神崎から短い報告が来た。
『フェリスの客、静かになりました』
高瀬はそれを見て、何も返さなかった。
静かならそれでいい。
でも、静かになった理由は高瀬本人の顔じゃない。
“後ろにいる誰か”を相手が勝手に想像したからだ。
その想像だけで客が引き、店が安心し、黒服が息を吐く。
多分、それがケツ持ちの一番リアルな値段なんだろうと、高瀬は思っていた。
自分で何かをするより前に、名前だけで空気を変える。
それがまだ効くうちは、この街で生きていける。




