32話 若い衆
最初は、もっと偉くなれると思っていた。
若い時にそう思う男は多い。
怖い先輩の後ろについて歩いて、名前を覚えられて、夜の街で少しだけ顔が利くようになると自分もそっち側に上がった気がするからだ。
でも実際には違う。
上がったんじゃない。
首輪の位置が少し変わっただけだった。
金子翔太は、池袋北口の裏手にある古い焼肉屋の前で、吸いかけの煙草を踏み消した。
時刻は1時12分。
店はもう閉まっている。
シャッターの前に、タバコの吸い殻と油の匂いだけが残っていた。
翔太は26歳だった。
組に正式に入っているわけではない。
盃もない。
でも、古い建設会社の名前が入った名刺だけは持っていた。
表向きはその会社の手伝い。
実際には、先輩に呼ばれたら行く。
金を持ってこいと言われたら回収へ行く。
飛んだ女の居場所を探せと言われたら探す。
飲み屋で揉めた客を外へ出せと言われたら出す。
たまに殴る。
たまに土下座もさせる。
その全部を、仕事とは少し違う顔でやる。
肩書きのない雑用ほど、逃げづらいものはない。
スマホが震えた。
神崎からだった。
名前の下に会社名はない。
でも、その男が出ればだいたいの話は決まる。
「着いたか」
「着いてます」
「3階な」
「誰いるんすか」
「お前が知ってる方と面倒になる時もあるだろ」
それだけ言って切れた。
そういう男だった。
説明しない。
でも逆らえない。
怒鳴るわけでもなく、脅すわけでもなく、こっちが勝手にまずい方を想像するような話し方をする。
翔太はビルへ入った。
雑居ビル。
エレベーターは古い。
3階のボタンだけ少し色が剥げている。
この辺の夜の仕事をしていると、知らなくていい場所だけ詳しくなる。
3階のドアを開けると、事務所というより休憩所みたいな部屋だった。
ソファ。
灰皿。
テーブルに缶コーヒーとコンビニ袋。
神崎は奥のソファに座っていた。
40代半ば。
短く刈った髪。
声は低い。
顔は怖くない。
でも、怖くない男の方が、この辺ではだいたい面倒だった。
テーブルの前には若い男が1人、椅子に座らされていた。
20代前半くらい。
スウェット。
安いダウン。
見たことのない顔だ。
でも、どこにでもいる顔でもあった。
「これ、翔太」
神崎が顎で男を示した。
「今月で3回目」
その短さでだいたい分かった。
飛びか、口座か、受けか、そのへんだ。
若い男は下を向いたままだった。
翔太は部屋の空気を見た。
他にいるのは2人。
1人は神崎の横にいる古株の男。
もう1人は知らない。
背が高くて、腕だけ太い。
こういう時、人数が1人多いだけで空気は変わる。
話をつける場から、見せる場へ近づく。
「何やったんですか」
翔太が聞くと、神崎は笑いもせず言った。
「やったっていうか、やらなかった」
若い男の肩が少しだけ縮んだ。
「先週1回飛んで、今日も飛んだ」
「……」
「連絡はつく、でも来ない」
翔太は男を見た。
目の下が暗い。
寝ていない顔だ。
こういう顔の若い男は珍しくなかった。
金がない。
住所が安定しない。
友達も薄い。
でもスマホだけはある。
そういうやつから、夜の街は一番先に食っていく。
「で」
神崎が続ける。
「もうこの手のやつ、優しく言っても覚えねえから」
その言い方で、翔太は少しだけ腹の奥が冷えた。
優しく言っても覚えない。
つまり次は別のやり方だと、最初から決まっている言い方だった。
「翔太、お前やれ」
部屋が少しだけ静かになった。
若い男が顔を上げる。
初めて目が合った。
怯えと、情けなさと、少しだけ「まだ大丈夫かもしれない」が混ざった目だった。
翔太はその目が嫌いだった。
嫌いというより、しんどかった。
昔の自分も少しだけああいう顔をしていた気がするからだ。
「俺ですか」
「お前がちょうどいいだろ」
神崎の声は平らだった。
「お前、加減分かるし」
それは褒め言葉ではなかった。
壊しすぎない。
でもちゃんと怖がらせる。
そういう役を振られているだけだ。
加減が分かる、という言葉で、こっちに少しだけ責任を持たせる。
「名前」
翔太は男に聞いた。
「……優斗」
「何歳」
「22」
「何回目か分かってる?」
優斗は黙った。
「分かってるかって聞いてる」
「……分かってます」
「じゃあ何で来ないの」
「金なくて」
「それはみんなそうだろ」
翔太は自分でも嫌になるくらい、簡単にその台詞を言えた。
金なくて。
疲れてて。
無理で。
そのへんの言葉は、夜の街ではもう言い訳のカテゴリでしかなかった。
でも、本当はたぶん言い訳じゃなくて、ただの現実なのだろうとも思う。
思っても、口には出さない。
ここでそんなことを言ったら、自分の立つ場所まで曖昧になるからだ。
「住所どこ」
「今、ネカフェです」
「金は」
「ないです」
「親は」
「無理です」
そこで神崎が小さく鼻を鳴らした。
その音だけで、翔太は「ああ、もうだめだな」と思った。
こういう返しは一番嫌われる。
ないです。
無理です。
終わってる側の正直さは、追う側には舐めてるように聞こえることがある。
翔太はまだ、ここで終われる気も少しだけしていた。
胸ぐらを掴んで、顔を寄せて、次飛んだらどうなるかだけ入れて帰す。
それくらいで済めばいいと思った。
でも済まない夜は、だいたい周りが先に決める。
「立て」
翔太が言うと、優斗はすぐには動かなかった。
動けないというより、身体が少し遅れている感じだった。
寝てないか、何か飲んでるか、その両方かもしれない。
「立てって」
もう1回言うと、優斗はようやく椅子から腰を上げた。
足元が少しふらつく。
そのタイミングで、背の高い男がぼそっと言った。
「この感じ、1発じゃ足んねえだろ」
翔太はその声が嫌だった。
こういう、やる前から空気を濁らせるやつが一番嫌いだ。
でも嫌いだと言える立場でもない。
神崎は黙ったまま、翔太の方だけ見ていた。
つまり、お前が決めろという顔だった。
翔太は優斗の前に立った。
「次、来るか」
「……来ます」
「来ます、じゃなくて来いよ」
「はい」
「何で飛んだ」
「ほんとに無理で」
そこで翔太は優斗の胸を軽く押した。
優斗は1歩下がって、壁に当たる。
その反応を見て、背の高い男が小さく笑った。
その笑いで、少しだけ線が遠くなった。
ここで何もせず引くと、場が変なふうに残る。
翔太はそういう空気に慣れてしまっていた。
慣れていること自体が、もう少しまずい。
「無理で済むなら、みんな無理だよな」
翔太は言った。
自分でも、神崎の言い方に少し似てきたと思う。
「お前だけ特別じゃねえから」
優斗は何も言わない。
言い返す元気もない顔だった。
そこが逆にいらつくこともある。
殴る側にとっては、相手に少し反発がある方がまだやりやすい。
完全に折れてるやつに手を出す方が、あとに残る。
翔太はそう思って、あえて聞いた。
「返事は?」
「……すみません」
「謝ってんじゃなくて、次どうすんだって聞いてる」
「行きます」
「どこに」
優斗は口を開いて、止まった。
その沈黙で、部屋の空気がまた1段悪くなる。
神崎はまだ何も言わない。
でも黙ってる方が、こういう男は怖い。
翔太は優斗の襟を掴んだ。
強くではない。
でも顔が近くなるには十分な強さで。
「お前さ」
低く言う。
「自分が今どっち側にいるか、まだ分かってないよな」
優斗の喉が動く。
「……」
「金ない、寝る場所ない、飛ぶ、連絡切る、その状態で選べる側にいると思ってんの?」
言いながら、翔太は少しだけ吐き気がした。
正論みたいな顔をした脅しが、一番嫌だったからだ。
でも、その嫌さを飲み込んでいるうちに、声だけはちゃんと出せるようになっていた。
「次からは」
翔太が続けようとした時、優斗が急に言った。
「じゃあ何やればいいんすか」
その言い方は、逆ギレでもなく、開き直りでもなかった。
本当に分からない時の声だった。
それが一番まずかった。
神崎が初めて口を開く。
「何でもだよ」
その瞬間、優斗の顔が完全に変わった。
諦めに近い顔だった。
翔太はそこで、先の景色が少し見えた。
こういうやつは次、もっと雑な仕事に回される。
受けか。
運びか。
拾いか。
それとも口座か。
何でもいい。
とにかく、今より下へ入る。
もう、その入口に片足は入っている。
「翔太」
神崎が言った。
「やれって言ったろ」
翔太は一瞬だけ、神崎の目を見た。
逆らえないと分かる目だった。
でも、それだけじゃない。
ここで手を出さないと、お前まで甘い側に落ちるぞという確認もあった。
下の人間は、たいていそれで動く。
怖いからだけじゃない。
自分が見切られるのが怖いからだ。
翔太は優斗の腹へ拳を入れた。
深くは入れない。
でも息が止まるくらいには入れる。
優斗が前へ折れた。
吐きそうな音がする。
それで終わりにしたかった。
でも、背の高い男がまた言った。
「それじゃ甘いって」
その一言で、翔太の中の何かも少し切れた。
優斗の肩を掴んで壁に押しつける。
もう1発。
今度は頬。
乾いた音が鳴る。
部屋が一瞬だけ静かになる。
その静かさが、変に気持ちよかった。
そこで翔太は少しだけ自分に驚いた。
気持ちいいと思ったのか、と。
いや、気持ちいいというより、場がまとまった感じがしただけかもしれない。
でも、その違いはもうあまり大きくないのかもしれなかった。
優斗は壁に手をついたまま、何も言わなかった。
泣きもしない。
ただ息だけが荒い。
翔太はそれを見て、急に冷えた。
もう十分だった。
十分なのに、こういう夜は誰も「もういい」とすぐには言わない。
神崎が立ち上がる。
優斗の前まで行って、しゃがみこむみたいに少しだけ目線を落とした。
「次、連絡切ったら、お前の家じゃなくて母親の方行くから」
優斗の目がそこで動いた。
母親。
そこだけ、まだ効くのだと思った。
神崎は続ける。
「分かったら返事」
「……はい」
「聞こえねえ」
「はい」
それで終わった。
本当に終わったわけじゃない。
今夜はそこで切っただけだ。
神崎は何事もなかったみたいにジャケットを直した。
「翔太、下まで来い」
翔太はうなずいた。
部屋を出る時、優斗を1度だけ見た。
若かった。
でも、その若さはもう、この部屋では何の免罪符にもならない。
下の階まで降りると、神崎が煙草に火をつけた。
「さっき、ちょっと遅かったな」
翔太は何も言わなかった。
「情けとかじゃねえよな」
「別に」
「ならいい」
それだけだった。
褒めもしない。
怒鳴りもしない。
でも、その短さで十分、こっちは分かる。
今夜はギリで通った。
次も同じようにやれ、ということだ。
ビルを出ると、北口の空気はまだ湿っていた。
コンビニの灯り。
タクシー。
笑っている酔っ払い。
何も知らない顔の街がいつも通り広がっている。
翔太は神崎と別れて、1人でコンビニへ入った。
煙草と缶コーヒーを買う。
レジの店員は若かった。
たぶん自分より少し下だ。
目も合わない。
それが妙に普通で、少しだけ腹が立った。
外に出て、缶を開ける。
手は震えていなかった。
そこが一番嫌だった。
初めてじゃない。
でも、慣れたとも思いたくない。
その中途半端な場所にいる。
若い衆っていうのは、たぶんそういう位置だ。
上から見ればただの駒。
下から見れば少し怖い側。
でも自分では、まだ完全にはどっちにもなりきれていない。
だから夜が長い。
スマホが震えた。
知らない番号。
出なくてもよかったが、出た。
女の声だった。
「片桐さんですか」
知らない声。
「誰」
「優斗のことで、ちょっと……」
そこで翔太は目を閉じた。
夜はまだ終わっていない。
若い衆っていうのは、だいたいこういう時にやっと分かる。
人を詰める側にいても、自分もずっと何かに使われているだけだと。




