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リセット  作者: ナオ
31/79

31話 裏オプ

 最初は、断るつもりだった。

 

 そういうのはやらない。

 店の外でも会わない。

 

 追加で金を積まれても、そこは越えない。

 最初に自分で決めた線は、たしかにあった。

 

 あかりはその線を、何度も頭の中でなぞっていた。

 

 だから、越えた瞬間もちゃんと分かっていた。

 分かっていながら、止まれなかっただけだ。

 

 中条あかりは、池袋北口の古いビジネスホテルの洗面台の前で、口紅を引き直していた。

 

 時計は23時28分。

 

 鏡の中の顔は、店で施術している時の顔とも、昼のネイルサロンに立っている時の顔とも少し違った。

 

 少し疲れていて、少しだけ覚悟が入っている。

 

 そういう顔だった。

 

 ホテルの部屋番号を送ってきたのは、高木だった。

 

 メンエスの本指。

 40代。

 

 最初は他の客より少しだけ感じがいいだけの男だった。

 

 無理に触ってこない。

 店外の誘いも急がない。

 金払いも悪くない。

 だから危なかった。

 

 露骨な客なら、最初から嫌えた。

 

 こういう、ちゃんとした顔をして距離を詰めてくる男の方が、判断を遅らせる。

 

 店の中では何度も会っていた。

 

 LINEも交換した。

 最初は差し入れの連絡だけだった。

 

『今日いる?』

『のど飴買っといたよ』

『無理しないでね』

 

 そういうやさしい文面が続くと、人は少しだけ相手の悪意を見落とす。

 

 悪意というほどでもないのかもしれない。

 男の側には、最初から大した罪悪感がないことも多い。

 

 少し多めに払う。

 少しやさしくする。

 

 それで店の外の線を越えられると思っている。

 

 高木もたぶんそうだった。

 

 最初に金額の話をしたのは、高木の方だった。

 

『店通すと高いし面倒じゃん』

『こっちなら、ちゃんと出すよ』

 

 ……ちゃんと出す。

 その言い方も、いかにもまっとうな取引みたいで気持ち悪かった。

 

 あかりは最初、既読だけつけて返さなかった。

 でも、その夜、家賃の引き落とし通知が来た。

 

 サロンの給料日まではまだ遠い。

 

 カードも少しきつい。

 

 そういう時に限って、店のシフトも薄い。

 店長は最近よく言っていた。

 

「本指増えてきたんだから、うまくやればもっと取れるでしょ」

 

 うまくやれば。

 それが何を指しているか、もう分かっていた。

 

 店は裏オプをやれとは言わない。

 でも、やる子が数字を持ってくることを知っている。

 

 知っていて、見ないふりをする。

 そのふりの中で、女だけが少しずつ自分の線を削る。

 

 高木とのやり取りは、3日くらい続いた。

 

 断る。

 向こうが引く。

 また連絡が来る。

 金額が少し上がる。

 また断る。

 その繰り返しだった。

 

 だから、今夜ホテルに来た時点で、あかりにはもう言い訳がなかった。

 

 流されたわけでもない。

 騙されたわけでもない。

 自分で時間をかけて、ちゃんと迷って、それでも来た。

 

 だからこそ余計に嫌だった。

 部屋のドアを開けると、高木は普通の顔で立っていた。

 

「ありがとう、来てくれて」

 

 声も普通だった。

 店で会う時とほとんど変わらない。

 

 その変わらなさが、逆に気持ち悪い。

 店の外で会っている時点で、もう同じではないのに。

 

「とりあえず座る?」

 

 あかりは靴を脱ぎながら、小さくうなずいた。

 

 部屋は狭かった。

 

 ベッドと、小さなソファと、ユニットバス。

 よくあるビジネスホテルだ。

 よくあるから余計に、これが特別じゃないことが分かる。

 

 こういうことをしている男女は、今この街にいくらでもいる。

 

 それが少し嫌だった。

 高木はコンビニの袋からペットボトルの水を出した。

 

「飲む?」

 

「大丈夫です」

 

「緊張してる?」

 

「……少し」

 

 高木はそこでやわらかく笑った。

 

「大丈夫だよ」

 

 何が大丈夫なのかは言わない。

 言わなくても、相手が勝手に都合のいい意味を入れるからだ。

 

 そういうやり方が、あかりはだんだん分かるようになっていた。

  

「約束のやつ、先に渡すね」

 

 高木は封筒を出した。

 厚みはあった。

 

 あかりは受け取って、数えなかった。

 

 数えると、もう完全に仕事になる気がしたからだ。

 

 でも受け取った時点で、もう十分仕事だった。

 いや、仕事より少し悪い何かかもしれなかった。

 

「店より全然いいでしょ」

 

 高木が軽く言う。

 

 だけど、あかりは返事をしなかった。

 

 全然いい、の意味がよく分からなかった。

 

 抜かれないからか。

 時間が自由だからか。

 

 それとも、こうやって個別で呼べる方が男に都合がいいからか。

 

 どれにしても、自分にとって良い話だけではないのは分かる。

 

 沈黙が少し重くなる。

 高木がそれを埋めるみたいに言った。

 

「別に、嫌がることしたいわけじゃないから」

 

 その言葉で、あかりは少しだけ笑いそうになった。

 

 嫌がることかどうかを決めるのは、だいたい言う側ではない。

 

 それに、今ここへ来た時点で、嫌だと言う権利も少しずつ痩せている気がした。

 

「今日だけだから」

 

 あかりは自分に言い聞かせるみたいに言った。

 高木はうなずいた。

 

「もちろん」

 

 今日だけ。

 今回だけ。

 少しだけ。

 

 夜の街でいちばん信用しない方がいい言葉ばかりが並ぶ。

 

 ホテルのベッドは、店の個室より明るかった。

 だから余計に、店じゃないことがはっきり見える。

 

 高木は乱暴ではなかった。

 そこがまた嫌だった。

 乱暴なら、はっきり嫌えた。

 ちゃんと金を払って、ちゃんと気を遣って、ちゃんと優しい顔で線を越えてくる。

 

 そういう男の方が、あとで自分を責めやすい。

 嫌なら来なければよかった。

 

 そう思ってしまうからだ。

 

 終わったあと、あかりはすぐに服を直した。

 

 高木は少し満足そうな顔をしていた。

 

 その顔を見た瞬間だけ、あかりは急に冷えた。

 店では見せなかった顔だった。

 客としての満足じゃない。

 

 もっと個人的で、もっと雑な達成感みたいなものがあった。

 

 ああ、と思った。

 この人はたぶん、メンエスの客でいたかったわけじゃない。

 

 最初から、こっちへ出したかったのだ。

 店の中では買えない感じを、店の外で買いたかっただけだ。

 

「やっぱり、店よりこっちの方がいいね」

 

 高木が言った。

 その一言で、あかりの中の何かが少し固まった。

 

「……何がですか」

 

「距離、かな」

 

 高木は笑った。

 

「店だとさ、どうしても仕事って感じするじゃん」

 

 ……仕事。

 

 その単語を、今さら向こうの口から聞くのかと思った。

 

 あかりはベッドの端に座ったまま、手を握った。

 

「今日も仕事みたいなもんですけど」

 

 言ったあとで、空気が少し止まる。

 高木は一瞬だけ表情を消した。

 でもすぐに戻した。

 

「まあ、そういう言い方するとそうだけど」

 

「そういう言い方って」

 

「いや、そんなによそよそしくしなくても」

 

 その返しで、あかりはようやく分かった。

 高木は金を払っているくせに、金の匂いを嫌うのだ。

 

 自分は客ではなく、少し特別な男だと思いたい。

 でも、払う時だけはちゃんと払う。

 その矛盾を相手には処理させる。

 

 だから気持ち悪い。

 

 あかりはそれ以上何も言わなかった。

 言ったところで、ここで正しさの話をしても金はきれいにならない。

 

 ホテルを出る時、高木はまた言った。

 

「また困った時は言ってよ」

 

 それが親切みたいに聞こえるように。

 でも、その言葉の裏にあるのが次の呼び出しだと、今のあかりにはもう分かっていた。

 

 帰り道、北口のコンビニへ寄って水を買った。

 トイレの鏡で顔を見る。

 

 泣いてはいない。

 崩れてもいない。

 ……思ったより普通だった。

 

 その普通さが、逆に少し怖かった。

 もっと傷ついた顔なら、まだ引き返せる気がするのに。

 

 スマホを見る。

 高木からさっそく来ていた。

 

『今日はありがとう』

『無理させてないといいけど』

 

 ……無理させてないといいけど。

 その文面を見て、あかりは少しだけ息を止めた。

 

 無理だったかどうかを決めるのは、結局いつもこっちだ。

 

 でも、こっちが「無理だった」と言いにくいような空気を作るのも、いつも向こうだ。

 

 そのやり方が静かで、ちゃんとしていて、だから余計に気持ち悪い。

 

 店のグループLINEには別の通知が来ていた。

 

『明日、17時から出れる子?』

 

 店長の文面はいつも通りだった。

 何も知らない顔。

 

 でも、こういう店では何も知らないまま続いていることの方が少ない。

 

 口コミで客の傾向は見える。

 女の売上で距離感は見える。

 

 それでも、見ないふりだけがうまくなっていく。

 あかりはコンビニを出て、北口の交差点で少し立ち止まった。

 

 ホテル街へ入る人、出る人、立っている女、声をかける男、職質している警官、全部が少しずつ同じ夜に混ざっている。

 

 メンエスは健全だと、最初は思っていた。

 

 今でも、高木はたぶんそういう言い方をするだろうと思う。

 

 風俗じゃないし、無理やりでもないし、ちゃんと金も払ってるし、と。

 そういう言い訳の形が、もうかなりこの街らしかった。

 

 裏オプという言葉は、店のメニューにはない。

 でも、ないまま存在している。

 見えない所だけで条件が変わる。

 変わったことを、みんな少しずつなかったことにする。

 

 そのなかったことの積み重ねで、気づけば一番大事な線だけが先に消えている。

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