26話 帰宅
最初に殴られた時、美咲は自分が悪かったのだと思った。
言い方がきつかったから。
相手が疲れていたから。
あの時、もう少し黙っていればよかったから。
そうやって理由を自分の方へ寄せると、その場では少しだけ楽だった。
相手が異常なんだと思うより、自分が気をつければ次は起きないと思う方が、まだ明日を考えやすいからだ。
小野寺美咲は28歳。
池袋から2駅離れた古いマンションの3階で、冷めた味噌汁を見ながら、玄関の音に耳を澄ませていた。
時刻は23時10分。
テレビはつけていない。
音があると、鍵の回る音を聞き逃しそうだった。
卓也と付き合って1年半。
同棲して8か月。
最初は優しかった。
優しいというより、細かかった。
寒くないか。
ちゃんと食べてるか。
仕事しんどくないか。
誰に何を言われたか。
そんなことまで気にしてくれる男は初めてだった。
美咲は、見てもらえている気がした。
それまで付き合った男は連絡が雑か都合がいい時だけ甘いか、そのどちらかだった。
卓也は違った。
返事は早い。
迎えにも来る。
体調が悪いと薬まで買ってくる。
だから、最初に「男の多い飲み会は行かないで」と言われた時も、嫉妬ではなく心配なのだと思った。
その次に「その友達、あんまり良くない感じする」と言われた時も、見る目があるのだと思った。
そういう、小さな囲い方から始まる。
いきなり殴る男の方が、たぶんまだ分かりやすい。
卓也は違った。
最初に減ったのは、美咲の友達だった。
会う回数が減る。
連絡が遅れる。
誘われても断る。
卓也が露骨に嫌な顔をするからだ。
「またその子?」
「いや、ちょっとごはんだけ」
「俺いるのに、そんな頻繁に外で誰かと会う必要ある?」
そう聞かれると、美咲はうまく返せなかった。
必要、と言われると、たしかに必要ではない気もした。
恋人がいて、一緒に住んでいて、平日は仕事があって、休日くらい家でゆっくりする方が自然かもしれない。
そうやって、少しずつ自分で納得する形に変えていく。
卓也は命令口調ではなかった。
……少なくとも最初は。
だから余計に遅かった。
次に減ったのは、美咲の金だった。
卓也は仕事が長続きしなかった。
建設関係だと言っていたが、よく分からない理由で現場を外されることが多かった。
会社が悪い。
上が腐ってる。
あいつらが分かってない。
そういう言い方をいつもした。
美咲は最初、それを信じた。
人間関係で損をしている不器用な男なのだと思った。
だから、生活費が足りない月に少し多めに出した。
携帯代を1回立て替えた。
その次の月は家賃も多く払った。
卓也はそのたびに言った。
「あとで返すから」
その「あと」が来ないことにも、最初は気づかないふりをした。
同棲してるのだから、多少の金は同じだと。
……そう思いたかった。
思っていたのに、ある日、美咲が財布から1万円を抜いた時、卓也は後ろから平然と言った。
「何に使うの」
その言い方が、妙に引っかかった。
「何にって、別に」
「今日休みでしょ」
「美容院」
「前も行ってなかった?」
……前も行っていた。
2か月前だ。
普通の会話のはずなのに、美咲はその時初めて、自分の金を使うのに説明が必要な空気を感じた。
それでも、まだ怒らなかった。
怒って関係が濁る方が面倒だったからだ。
最初に平手が飛んだのは、その少しあとだった。
美咲が、昔の同僚の結婚式に出ると言った夜だ。
卓也は酒を飲んでいた。
「何で行かなきゃいけないの?」
「何でって、誘われてるから」
「男も来るんだろ?」
「来るだろうけど、別に」
別に、まで言ったところで頬が鳴った。
音の方が先に頭へ来た。
痛みは少し遅れて来る。
美咲は数秒、何が起きたか分からなかった。
卓也の方も少し驚いた顔をしていた。
だから余計に、美咲は大ごとにできなかった。
本気じゃなかったのかもしれない。
手が出ただけなのかもしれない。
今ここで泣いたり怒ったりしたら、逆に全部が変な方向へ行く気がした。
「……何するの」
そう言うのがやっとだった。
卓也はすぐに謝った。
「ごめん」
その謝り方が早すぎた。
慣れている人間の速度だった。
でも、その時の美咲はそこまで見えなかった。
「ごめん、今のは俺が悪い」
卓也はほんとうに悪そうな顔をした。
だから、美咲はその夜、結婚式を断った。
殴られたからではない。
気まずくなったから、という形で。
そうすると、卓也を許したことにはならないまま、自分だけが予定を減らしたことになる。
そういう減らし方をしているうちに、生活の中から自分の足場だけが少しずつ消える。
2回目はもっと早かった。
3回目はもっと軽かった。
平手。
腕を掴まれる。
壁に押しつけられる。
怒鳴られる。
投げられるのは物まで。
そうやって、自分の中で「これは暴力だ」と名づけるまでに、かなり時間がかかった。
名前をつけた瞬間、次は逃げるか耐えるかを決めなければいけなくなるからだ。
ある夜、美咲は会社のトイレで頬の薄い赤みをコンシーラーで消していた。
先輩の女が鏡越しに言う。
「最近、元気なくない?」
「そうですか」
「何かあった?」
美咲は一瞬だけ、言おうかと思った。
……でもやめた。
言った瞬間、自分がかわいそうな女になる気がしたからだ。
しかも、もし相手に「別れなよ」と正しいことを言われたら、それに従えない自分まで浮く。
だから笑う。
「寝不足かも」
先輩はそれ以上聞かなかった。
優しさか、面倒くささかは分からない。
でも、その何も聞かれない感じが少しだけありがたかった。
逃げたいと思わないわけではなかった。
何度も思った。
でも逃げるには、まず部屋を出る場所がいる。
金もいる。
荷物もまとめる必要がある。
実家へ帰るなら説明がいる。
会社にも言い訳がいる。
その全部を考えると、今夜だけ静かに終わる方を選んでしまう。
DVの怖さは、殴られる痛みより先に、逃げる手順が増えすぎることだと美咲は思う。
全部を一気にやらないと出られない。
だから、人は毎晩少しずつ先延ばしにする。
その晩、卓也が帰ってきたのは0時過ぎだった。
玄関の鍵が回る音がして美咲の肩が先に縮む、それだけで、もう生活はかなり壊れているのだと思う。
ただいま、の一言で安心する家もあるはずなのに。
卓也はコンビニ袋を提げていた。
機嫌は読みにくい。
こういう時がいちばん嫌だ。
怒っている方がまだ準備できる。
普通の顔の方が、どこで急に切り替わるか分からない。
「起きてたんだ」
「うん」
「飯は」
「味噌汁あるけど」
「いらない」
卓也は上着も脱がずにソファへ座った。
スマホを見ている。
その数分が、美咲にはひどく長かった。
「今日さ」
やがて卓也が言う。
「誰とLINEしてたの」
来た、と思った。
美咲はできるだけ普通に返す。
「誰とも」
「嘘つくなよ」
「職場の人とか」
「男?」
「違う」
卓也はそこでスマホを机に置いた。
美咲のスマホだった。
血の気が引いた。
「勝手に見たの?」
「ロック変えた?」
質問に質問で返してくる時は、だいたいもう答え合わせは終わっている。
卓也は見たのだ。
見て、自分が気に入らない文面を見つけたのだ。
「何で見るの?」
「何で見られたら困るの」
「困るとかじゃなくて」
「じゃあ見せろよ」
美咲はそこで少しだけ声が強くなった。
「やだよ」
その「やだよ」が、たぶん悪かった。
卓也は立ち上がるのが早かった。
ソファがきしむ。
足音が近い。
次に来るものを身体だけが先に覚えている。
美咲は反射で1歩下がった。
でも後ろはキッチンだった。
卓也は美咲の腕を掴んだ。
強い。
「何で逃げんの」
「離して」
「何もないなら見せろって」
「痛い」
卓也はその時、少しだけ笑っていた。
怒鳴るより嫌な顔だった。
「大げさ」
その一言で、美咲の中の何かが少し切れた。
痛いのに、大げさだと言われる。
怖いのに、被害者ぶるなみたいな顔をされる。
その瞬間だけ、急に腹の底から言葉が出た。
「もう無理」
卓也の目が少しだけ変わった。
暗くなる。
こういう時、人の顔って本当に少しだけ別物になるのだと美咲は思った。
「何が無理なんだよ」
「全部」
言ったあとで、少しだけまずいと思った。
でももう遅かった。
卓也は美咲を壁へ押しつけた。
後頭部が軽く当たる。
痛みはそこまでじゃない。
でも、それ以上に、自分の身体が相手の機嫌1つで動かされる感覚が嫌だった。
「お前、誰に食わせてもらってると思ってんの」
その言葉で、美咲は一瞬だけ笑いそうになった。
笑えるはずないのに、変に可笑しかった。
食わせてもらっているのは、どっちだろうと思ったからだ。
家賃の半分以上は美咲が払っている。
携帯も、美容室も、コンビニも、卓也の足りない分を何度も出してきた。
それなのに、こういう男は最後に必ず「誰のおかげで」と言う。
支配したい相手には、事実より先に言い方が必要なのだろう。
「笑ってんの?」
卓也の声が低くなった。
美咲は笑っていなかった。
でも笑いそうになった顔は、たぶん見えていた。
……次は拳だった。
腹へ入る。
浅いが、空気が抜けるには十分だった。
美咲はその場でしゃがみ込んだ。
視界の端で、味噌汁の鍋がコンロの上に残っているのが見えた。
冷めている。
今日が普通に終わる可能性は、たぶんもっと前に死んでいた。
「お前さ」
卓也が上から言う。
「毎回そうやって俺を悪くするよな」
その言い方は何度か聞いた。
殴ったあと。
泣いたあと。
物が壊れたあと。
卓也はいつも、最終的には自分が追い詰められていた顔をする。
加害者なのに、被害者みたいな目をする。
それを見るたび、美咲の中の怒りが少しだけ鈍る。
相手も苦しいのかもしれない、と一瞬でも思ってしまうからだ。
それがたぶん、1番だめだった。
美咲は床に手をついたまま、息を整えた。
泣かなかった。
泣くと、そこで終わる。
終わるというより、いつもの流れに戻る。
謝られて、抱きしめられて、次はしないと言われて、数日やさしくなって、また始まる。
そのループを、身体の方が先に覚えていた。
「……明日、出てく」
美咲は小さく言った。
卓也は数秒、黙った。
「どこに」
「どこでも」
「行くとこあるの」
「なくても出る」
その返事は、自分でも少し驚くくらい静かだった。
もう怒りでもなかった。
腹の奥に何も残っていない声だった。
卓也はしばらく立ったまま、美咲を見ていた。
怒鳴るかと思った。
また蹴るかと思った。
でもそうはしなかった。
代わりに、ひどく冷たい声で言った。
「じゃあ勝手にすれば」
その言い方で、美咲は逆に分かった。
この男は、本気で出ていかれるとは思っていない。
今まで毎回、美咲が朝には普通の顔に戻っていたからだ。
だから今回もそうだと思っている。
その軽さが、少しだけ美咲を楽にした。
夜が明けるまで、美咲はほとんど眠れなかった。
卓也は途中で寝た。
その寝息を聞きながら、美咲はスマホでネットカフェを検索した。
ビジネスホテルは高い。
友達の連絡先を開いて、閉じる。
実家のトーク画面も開いて、閉じる。
結局、始発の出る時間まで待つことにした。
空が少し明るくなった頃、卓也はまだ寝ていた。
美咲は音を立てないように、最低限のものだけバッグへ入れた。
財布。
充電器。
保険証。
着替えを少し。
それだけで、生活がずいぶん軽く見えた。
玄関のドアを開ける時、手が震えた。
でも、怖いというより、もう少し別の感覚だった。
本当に出るのだという実感が、やっと身体へ追いついてきた感じに近かった。
外の空気は冷たかった。
でも、部屋の中より息がしやすかった。
階段を降りながら、美咲はスマホを開いた。
母のトーク画面を開く。
……何て送ればいいか分からなかった。
ごめん、でも違う。
助けて、も少し違う。
少し考えてから、短く打った。
『今から帰っていい?』
送信。
既読はまだつかない。
それでも、美咲は駅の方へ歩いた。
帰れるかどうかは分からない。
今日1日で全部が片づくわけでもない。
でも、帰宅という言葉が、部屋に戻ることじゃなくなる朝もあるのだと、その時初めて思った。




