25話 保存
最初は、消す約束だった。
「見るのは今だけ」
「終わったらちゃんと消す」
「そんなの残すわけないじゃん」
そう言われて、芽衣は少しだけ安心した。
安心したというより、安心したことにした。
本当に安心していたわけではない。
ただ、その場の空気を壊したくなかった。
断ったら、今までの流れまで急に生々しくなる気がした。
だから笑って、分かったと言ってしまった。
小坂芽衣は22歳だった。
都内の専門学校を中退して、池袋のカフェでアルバイトをしている。
実家は埼玉にあるが、もう半年以上帰っていない。
母にはまだ、学校へ通っているふりをしていた。
やめたと言うと、次はどうするの?何で黙ってたの?お金はどうするの?と聞かれるのが分かっていたからだ。
聞かれたところで、答えは何もなかった。
芽衣は、ちゃんと落ちる前の人間によくある顔をしていた。
生活はまだ壊れていない。
でも、少し嘘が増えている。
その段階だった。
男と会ったのは、アプリだった。
28歳。
広告会社勤務。
名前は拓海。
本名かどうかは分からない。
プロフィール写真は普通だった。
スーツでもなく、筋肉を見せるでもなく、旅行の景色の前で少し笑っているだけ。
そういう普通っぽい男の方が、逆に警戒が薄れる。
連絡は早かった。
でも、がつがつしていなかった。
そこがよかった。
よかった、と思った時点でもう少し危ない。
最初は食事だけだった。
東口のイタリアン。
話はつまらなくもなく、面白すぎもしなかった。
仕事の話。
実家の話。
昔やってた部活の話。
その程度だ。
でも、男は芽衣の話をよく聞いた。
「それ、結構しんどくない?」
「ちゃんと頑張ってるじゃん」
そういう言い方をされたのが久しぶりで、芽衣は少しだけ気が緩んだ。
2回目は新宿だった。
3回目で手を繋いだ。
4回目でホテルへ行った。
そこまでは、自分でもまだ恋愛の範囲だと思っていた。
大人だし。
別に無理やりじゃないし、好きってほどじゃなくても、流れでそうなることはあるし。
その全部は、たぶん間違いではなかった。
でも、その夜の後半で空気だけが少し変わった。
ベッドの上で、拓海がスマホを手に取った。
「ねえ」
「なに」
「ちょっと撮っていい?」
芽衣はその時、すぐには意味が分からなかった。
「え?」
「いや、顔は映さないし」
拓海は笑っていた。
軽い調子だった。
冗談にも聞こえる。
断ってもいいくらいの軽さで言う。
そういう聞き方が、いちばん断りにくい。
「やだよ」
芽衣は一応そう言った……でも声は強くなかった。
強くすると、自分だけ急に真面目みたいになる気がしたからだ。
拓海は少し口を尖らせる。
「そんなガチなのじゃないって」
「でも嫌」
「見るの俺だけだよ」
「……」
「終わったら消すし」
その「消すし」が妙に早かった。
芽衣がまだ何も言っていないのに、先にそこまで言う……つまり、前にも似たようなことを言ったことがある人間の言い方だった。
でも、その時の芽衣にはそこまで見えなかった。
ただ、断りきれずに黙った。
黙ったことが、そのまま了承になる空気があった。
それも分かっていた。
分かっていながら、止められなかった。
拓海は本当に顔を映さなかった。
最初は。
肩と髪。
鎖骨のあたり。
そういう切り取り方だった。
だから芽衣は、これなら大丈夫かもしれないと、途中で思ってしまった。
それが最悪だった。
大丈夫かもしれない、と思った時に、人は1番きれいに足を滑らせる。
終わったあと、拓海はスマホを振って見せた。
「ほら、こんな感じ」
画面に映るのは自分だった。
顔はほとんど見えていない。
でも、自分だと分かる。
自分だけには分かる。
芽衣は少し嫌な感じがした。
「消して」
「え、今?」
「今」
「分かったよ」
拓海は笑ったまま、画面を操作した。
「はい、消した」
その画面を、芽衣はちゃんと見なかった。
見ればよかったのだと思う。
でも、その時は早くこの話を終わらせたかった。
こういうやり取りをしたこと自体、なかったことみたいにしたかった。
ホテルを出たあと、拓海は普通だった。
コンビニでコーヒーを買ってくれた。
駅まで送ってくれた。
また会おうと言った。
だから芽衣も、あの数分だけがおかしかったのだと思うことにした。
おかしい男なら、もっと分かりやすく変なはずだと、その考え方も甘かった……怖い人間は、いつも全部が変な顔をしているわけじゃない。
むしろ、9割は普通の顔で残っている。
連絡が変わったのは、その2週間後だった。
拓海からの返信が遅くなった。
でも、切れるほどではない。
会おうと言うと忙しいと言う。
忙しいと言いながら、夜中にはストーリーが上がっている。
芽衣は少しだけ腹が立った。
腹が立つほどの関係じゃないのも分かっていた。
でも、身体を見せたあとの無視は、普通の既読スルーより少しだけ刺さる。
自分の価値まで雑に扱われた気がするからだ。
だから、芽衣の方からも連絡しなくなった。
それで終わるはずだった。
終わらなかったのは、金曜の夜だった。
カフェの休憩中、知らないアカウントからDMが来た。
『これ、あなただよね?』
その文の下に、画像が1枚ついていた。
タップする前から、血の気が引いた。
開く。
ホテルのベッド。
自分の肩。
髪。
首元。
顔は半分だけだが、知っている人なら分かる角度だった。
芽衣は一瞬……本当に息が止まった。
何度も見直した。
指が冷たくなる。
胃の奥が縮む。
頭の中で、ホテルの部屋と拓海の笑い方が一気に戻ってきた。
消していなかった。
最初に浮かんだのは怒りじゃなかった。
やっぱり、だった。
あの時ちゃんと見ればよかった。
あの時強く言えばよかった。
そっちの後悔が先に来る。
だからこういう話は厄介だ。
相手が悪いのに、自分の方が先に自分を責め始める。
DMは続いていた。
『心配しなくても晒したりしないよ』
『ただ、ちょっと話したいだけ』
その「心配しなくても」が、いちばん心配になる言い方だった。
芽衣はそのまま拓海に連絡した。
『画像、何?』
既読はつかない。
電話をかける。
出ない。
もう1回。
出ない。
DMの方からまた来る。
『焦らなくていいよ』
『消してほしいなら、ちゃんと話そ』
話そ。
その言い方も軽い。
でも実際は、交渉だ。
交渉というより、もう脅しに近い。
芽衣はトイレへ駆け込んで個室でしゃがみ込むと、吐きそうだった。
でも何も出なかった。
自分で撮ったわけじゃない。
拡散したわけでもない。
悪いのは向こうのはずだ。
なのに、頭の中では「何であの時断らなかったの」が何度も回る。
芽衣はその夜、店長に体調不良だと言って早退した。
家へ帰ってからも、DMは来続けた。
『金とかじゃないよ』
『ちゃんと話できれば消す』
『疑うなら無理にとは言わないけど』
その文面の感じが、逆に慣れていた。
金とかじゃない、から始める時は、だいたいあとで金の話になる。
ちゃんと話できれば消す、は、今すぐ消すつもりがないという意味だ。
疑うなら無理にとは言わない、は、断ったら面倒になるという意味だ。
そういう読み方が、芽衣の中で急にできるようになった。
できるようになったところで、何も楽にはならなかった。
翌朝、拓海からようやく返信が来た。
『ごめん』
その3文字だけで、芽衣は逆に冷えた。
ごめんで済むと思っている人間の文だった。
『どういうこと?』
『俺のスマホじゃない』
芽衣はその文を見て、少しだけ笑った。
怖い時ほど、笑いそうになることがある。
俺のスマホじゃない。
じゃあ誰のだ。
何でそんなものが他人に渡る。
全部が雑すぎる。
でも雑な言い訳をするやつほど、逆に本気で焦っていないこともある。
『友達に見られたかも』
『でも広めたりはしてない』
『ちゃんと消すから』
……ちゃんと。
今さらその言葉を使うのかと思った。
芽衣はスマホを握ったまま、しばらくベッドの端で動けなかった。
母からLINEが来ていた。
『元気?』
バイト先のシフトも入っていた。
今日も普通に店へ行って、レジを打って、客に「ありがとうございます」と言うのだろうと思うと、気が遠くなった。
その日の夜、芽衣は結局、DMの相手と会った。
駅から少し離れたファミレスだった。
相手は拓海ではなかった。
同じくらいの年の男で、髪だけが派手だった。
顔は普通。
服も普通。
だから余計に嫌だった。
こういうことをする男が、特別な顔をしていないことが。
「ごめんね、怖がらせるつもりなくて」
男は最初にそう言った。
そして、その時点で芽衣はもう帰りたくなった。
怖がらせるつもりがないなら、最初から画像なんて送らない。
でも、こういう男はそれを本気で分かっていないこともある。
「消してください」
芽衣は座ってすぐ言った。
「うん、消すよ」
男はうなずいた。
「でもさ、こっちも少し困ってて」
来た、と思った。
金だ。
それ以外にない。
芽衣は膝の上で手を握った。
「いくらですか」
男は少しだけ笑った。
「話早いね」
その瞬間、芽衣は自分が完全に値段の話へ連れてこられたのだと分かった。
画像の中の自分も。
今ここに座っている自分も。
同じように値段で扱われている。
金額は高すぎなかった。
でも安くもなかった。
払えないほどではない。
でも払えば、また次がある気がした。
こういう脅しは、そこがうまい。
人生が終わるほどの額は言わない。
払えるかもしれない額を出して、払った方が早いと思わせる。
芽衣はその場で断れなかった。
だからだめなのだと思った。
でも、断れない人間を選んで送っているのも、向こうなのだと思った。
帰り道、芽衣はずっとスマホを見ていた。
拓海からの『ほんとにごめん』も、知らない男からの『今日中なら待つ』も、全部同じ明るさで画面に並んでいる。
その平らさが、ひどく現代っぽいと思った。
恐怖も謝罪も脅しも全部同じ通知欄に並ぶ。
部屋へ帰ると、芽衣は最初に鏡を見た。
何も変わっていない顔だった。
でも、自分の中では何かがはっきり汚れた気がした。
汚れたというより、もう消せないものとして保存された感じだった。
翌朝、芽衣は出勤前に警察署の場所を検索した。
でもそのあとで、スマホを閉じた。
相談したら、何を聞かれるのかが先に浮かんだからだ。
どういう経緯で会ったのか。
何回目なのか。
同意はあったのか。
撮影は拒否したのか。
金の要求はあったのか。
全部、答えられないわけじゃない。
でも答えているうちに、自分の方が何か悪いことをしたみたいな気がしてきそうだった。
そう思わせる構造ごと、向こうは知っているのだろうとも思う。
スマホが震える。
また知らない番号。
芽衣は出なかった。
出ないまま、制服に着替えた。
レジに立って、パンを温めて、客に会釈して、何もなかった顔をする。
保存というのは、画像のことだけじゃない。
あの夜の温度も、男の言い方も、断れなかった自分の声も、全部どこかに残る。
消します、と言ったくらいで消えるようなものは、最初からそんなに怖くない。




