24話 見せしめ
最初は、脅すだけのつもりだった。
居場所を教えろ。
飛ぶなら筋通せ。
次やったらもっと面倒になるぞ。
そのくらいで終わる話はいくらでもある。
実際、直人もそう思っていた。
殴る必要なんてない。
顔を覚えさせて、怖がらせて、次から連絡を無視できないようにすれば十分だと。
でも、そういう夜ほど、空気の方が先に暴力へ寄っていく。
片桐直人は、池袋北口の外れにある古い立体駐車場の脇で煙草を吸っていた。
時刻は0時20分。
上の道路を車が通るたびに、コンクリートの隙間から鈍い音が落ちてくる様な、街の中心から少しだけ外れた場所だった。
明るすぎず、暗すぎない。
こういう場所で話をつけるのが神谷のやり方だった。
直人は27歳。
肩書きはない。
職業もない。
でも、夜の街ではたまに名前で呼ばれる。
神谷のとこの片桐。
回収や押さえの時に来るやつ。
その程度だ。
すごいわけじゃない。
偉いわけでもない。
ただ、場を荒らさずに怖がらせるのが少しうまい、それだけの人間だった。
今夜の相手は、20歳の男だった。
大翔。
3週間前に受けで1回使って、そのあと追加で頼んだ口座を持ち逃げした。
持ち逃げといっても何千万の話じゃないし、額だけ見れば大したことはない。
でも、こういう小さい飛びを放っておくと周りも雑になる。
だから神谷は見せしめを好んだ。
金を取り戻すためじゃなく、空気を締めるためにやる。
見せしめというのは、そういう用途の言葉だった。
神谷の車が来たのは0時半ちょうどだった。
黒いミニバン。
運転席に神谷。
助手席に大翔。
後ろにもう1人、知らない顔の男がいた。
たぶん別口の連れだろう。
そういうのが1人増えるだけで、話の空気は変わる。
誰かが見ている前で、人は急に引けなくなる。
直人は煙草を踏み消して車へ近づいた。
助手席のドアが開く。
大翔が半分押し出されるみたいに降りてきた。
フードをかぶって、顔色が悪い。
目の下にクマ。
大学生でも、コンビニ夜勤でも、ネカフェ難民でも通りそうな顔だった。
つまり、どこにでもいる顔だ。
神谷が窓を少し下げて言う。
「こいつ、まだ自分がそんな悪いことしてない顔なんだよな」
大翔は何も言わなかった。
言い訳を用意してきた顔ではない。
たぶん車の中ですでに、1回詰められていて口が乾いてるのだろう。
直人はできるだけ普通の声で聞いた。
「何で飛んだの」
大翔は少し遅れて答える。
「飛んでないです」
その返しの瞬間、神谷が小さく笑った。
笑ったというより、鼻で切った。
「それだよ」
神谷が言う。
「その、まだ誤差みたいに言う感じ」
大翔は視線を落としたまま続けた。
「携帯止まってて、連絡できなくて」
「今動いてんじゃん」
「今日やっと払えて」
「どの金で?」
神谷の声は低かった。
怒鳴らない。
怒鳴らないから、逆に逃げ場がない。
「持ち逃げした口座、どこ流した」
「売ってないです」
「じゃあ今どこにあんの」
「……」
「答えろよ」
沈黙が少し長くなった。
その間に、後部座席の知らない男がドアを開けて降りてきた。
背が高い。
無言。
腕だけが太い。
こういう男が1人立つと、それだけで会話が雑に暴力へ近づくのが、直人は少し嫌だった。
嫌だと思うくらいの感覚は、まだ残っていた。
「なくしたんです」
大翔がようやく言った。
「は?」
神谷の声が少しだけ低くなる。
「なくしたって何」
「ほんとに、どっかで……」
そこで直人は、ああだめだと思った。
言い訳の中でも最悪の部類だった。
嘘でも本当でも、相手を舐めてる感じが出るからだ。
神谷が車から降りる。
夜の空気が少し張る。
「なくした、で済むなら楽だよな」
大翔は1歩だけ下がった。
でも狭い場所だから、すぐ壁に当たる。
直人はそこで、まだ言葉で終わらせられるかを少し考えた。
「とりあえず場所だけ思い出せば」
「いや」
神谷が遮る。
「思い出さないだろ、こいつ」
その言い方に、後ろの男が小さく笑った。
それがよくなかった。
誰かが笑うと、場の空気が一気に人を使う方向へ倒れる。
大翔も、それを感じたのだろう。
急に早口になった。
「ほんとに払うつもりはあって、でも最近ネカフェで、荷物まとめてて、その時に」
神谷の手が先に出た。
平手だった。
乾いた音がして、大翔の顔が横へずれた。
強烈ではない。
でも、その1発で今夜の線は越えた。
直人は口の中で少し舌打ちしたくなった。
ここから先は、もう「脅すだけ」で終わりにくい。
大翔は頬を押さえたまま、何も言わなかった。
泣きもしない。
その代わり、目だけが完全に怯えた。
神谷は近づいて言う。
「こっちも暇じゃねえんだよ」
「……すみません」
「謝るなら最初にやれ」
「ほんとに、払うんで」
「だから何で払うんだよ」
大翔は答えられない。
払うと言うやつほど、払う当てがない。
直人は何度も見てきた。
でも、答えられない沈黙は、見てる人間の苛立ちを増やす。
特に、神谷みたいなタイプには。
直人は1歩だけ前へ出た。
「大翔、口座がないなら流した先か渡した相手か、せめてそこ出せ」
「いないです」
「いないわけねえだろ」
「ほんとです」
「じゃあお前が抱えてんの?」
「……」
その沈黙で、たぶん何かはあると分かる。
自分で使ったか。
もっと雑なところへ投げたか。
あるいは、別の連中に安く流したか。
どれにしても、言えない時点で終わっている。
神谷が大翔の胸ぐらを掴んだ。
「ほんとです、しか言わねえなら、こっちもそれ用の話し方になるけど」
大翔の喉が動く。
直人はそれを見ながら、ここで終わればいいのにと思った……思ったが、もう神谷の顔が止まらないのも分かった。
周りに見せる顔になっている。
下の連中にも、知らない男にも直人にも。
こういう時の神谷は、自分のためだけじゃなく空気のためにやる。
それがいちばん厄介だった。
「金ないなら身体で返せって言ったら、お前できんの?」
神谷が言う。
大翔は首を振った。
「できないです」
「じゃあ何でそんな簡単に飛んだの」
「……もう、無理だったから」
その一言で、直人は少しだけ目を上げた。
無理だった。
それは多分、本音だった。
けれど、本音が通る場じゃない。
神谷もそれを分かっているから、逆に苛立つ。
「無理で済むなら、みんな無理だよ」
次は膝だった。
腹へ浅く入る。
大翔が折れる。
壁に手をつく。
吐きそうな音が出る。
直人はそこで、少し強く言った。
「神谷さん、そのへんで」
神谷が振り向く。
その目だけで、今口を挟むなと言っている。
直人は一瞬だけ黙った。
こういう時に引くと、自分まで弱く見える。
でも出すぎると、今度は自分が詰められる。
その中間で立っているのが、下っ端のいちばん嫌なところだった。
後ろの男がぼそっと言う。
「このくらいじゃ覚えないっしょ」
その一言で、また空気が悪くなる。
見ているだけのやつが言う言葉は、だいたい状況を1段悪くする。
直人はその男が嫌いになる、名前も知らないくせに、こういう時だけ場に乗るやつ。
神谷は大翔の髪を掴んで顔を上げさせた。
「なあ……見せるもん見せないと、ほんとに周りが雑になるんだよ」
見せるもん。
見せしめのことだ。
つまり今、大翔は本人の失敗以上の役目を押しつけられている。
ここで痛い目を見れば次のやつが少しびびる。
それだけのために、殴られる。
直人はその構造を知っているし、自分もその一部なのだからこそ、たまに胃の奥が冷える。
神谷がもう1発いこうとした時、大翔が急に吐いた。
足元に。
胃液みたいな、薄い色のやつ。
神谷が舌打ちして手を離す。
「きっしょ」
そこで一瞬だけ、場の熱が切れた。
暴力は、こういう気持ち悪い現実に触れると少し止まることがある。
血より、吐瀉物の方が空気を冷やす時がある。
大翔はしゃがみこんだまま、肩で息をしていた。
頬が腫れ始めている。
でも骨はいっていない。
たぶん。
神谷は靴の先を見て、心底嫌そうな顔をした。
「もういいわ」
その「もういい」は、許したという意味じゃない、今日はここまで、というだけだ。
「次、金曜までに連絡よこせ」
大翔は答えない。
答えないから、神谷がもう1回言う。
「分かったか」
「……はい」
「口座の件も吐け」
「……はい」
「次飛んだら、今日より軽く済むと思うなよ」
それで終わった。
終わったというより、今夜はそこで切っただけだった。
直人は大翔を1度だけ見た。
若い。
でも、もうこの手の若さはあまり感じなくなっていて、ネカフェでも闇バイトでも立ちんぼの周りでも、こういう顔を見すぎているからだ。
神谷が車に戻りながら言う。
「片桐、駅まで送るぞ」
直人はうなずいた。
大翔はその場に置いたままだ。
死なない程度。
歩ける程度。
そこだけは、みんな妙に正確にやる。
車に乗ると、神谷は何事もなかったみたいにコンビニの話をした。
「このへんで煙草安いとこなくね?」
直人は少しだけ笑った。
「どこも一緒でしょ」
「いや、なんか損してる感じあるんだよな」
さっき人を殴っていた男が、数分後には煙草の値段の話をする。
その切り替わりが、直人は毎回少しだけ怖い。
怖いのに、自分も普通に返している。
そこがもっと怖かった。
途中でコンビニに寄った。
神谷は缶コーヒーを買い、直人は煙草を買った。
レジの店員は何も見ていない。
見えてもいない。
直人はガラスに映る自分の顔を見た。
変わっていない。
少なくとも外からは、さっきまで人の顔を壁に押しつけていた男には見えない。
神谷が先に外へ出る。
直人は少し遅れて店を出た。
夜風が顔に当たる。
ポケットの中でスマホが震えた。
知らない番号からだった。
出ない。
たぶんまた別件だ。
飛んだやつか、口座か、女、金か。
そういう話しか夜には来ない。
火をつけて、1口吸う。
煙は普通だった。
さっきのことが、もう少し前のことみたいに感じる。
直人はその感覚に少しだけ吐き気がした。
殴った方じゃない。
止めようとした。
自分ではそう思っている。
でも結局、止まってはいない。
見ていたし、乗っていたし、最後は普通にコンビニで煙草を買っている。
見せしめというのは、殴られた側に傷が残るだけじゃない。
見ていた側にも、少しずつ「このくらいなら普通」が残っていく。
それがいちばんまずいのだと、直人はたぶんもう知っていた。
知っていて、次もたぶん同じ車に乗るのだろうとも思っていた。




