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リセット  作者: ナオ
24/79

24話 見せしめ

 最初は、脅すだけのつもりだった。

 

 居場所を教えろ。

 飛ぶなら筋通せ。

 次やったらもっと面倒になるぞ。

 

 そのくらいで終わる話はいくらでもある。

 

 実際、直人もそう思っていた。

 

 殴る必要なんてない。

 

 顔を覚えさせて、怖がらせて、次から連絡を無視できないようにすれば十分だと。

 

 でも、そういう夜ほど、空気の方が先に暴力へ寄っていく。

 

 片桐直人は、池袋北口の外れにある古い立体駐車場の脇で煙草を吸っていた。

 

 時刻は0時20分。

 

 上の道路を車が通るたびに、コンクリートの隙間から鈍い音が落ちてくる様な、街の中心から少しだけ外れた場所だった。

 

 明るすぎず、暗すぎない。

 

 こういう場所で話をつけるのが神谷のやり方だった。

 

 直人は27歳。

 

 肩書きはない。

 職業もない。

 

 でも、夜の街ではたまに名前で呼ばれる。

 

 神谷のとこの片桐。

 回収や押さえの時に来るやつ。

 

 その程度だ。

 すごいわけじゃない。

 偉いわけでもない。

 

 ただ、場を荒らさずに怖がらせるのが少しうまい、それだけの人間だった。

 

 今夜の相手は、20歳の男だった。

 

 大翔。

 

 3週間前に受けで1回使って、そのあと追加で頼んだ口座を持ち逃げした。

 

 持ち逃げといっても何千万の話じゃないし、額だけ見れば大したことはない。

 

 でも、こういう小さい飛びを放っておくと周りも雑になる。

 

 だから神谷は見せしめを好んだ。

 金を取り戻すためじゃなく、空気を締めるためにやる。

 

 見せしめというのは、そういう用途の言葉だった。

 

 神谷の車が来たのは0時半ちょうどだった。

 

 黒いミニバン。

 運転席に神谷。

 助手席に大翔。

 後ろにもう1人、知らない顔の男がいた。

 

 たぶん別口の連れだろう。

 

 そういうのが1人増えるだけで、話の空気は変わる。

 

 誰かが見ている前で、人は急に引けなくなる。

 

 直人は煙草を踏み消して車へ近づいた。

 助手席のドアが開く。

 

 大翔が半分押し出されるみたいに降りてきた。

 フードをかぶって、顔色が悪い。

 目の下にクマ。

 

 大学生でも、コンビニ夜勤でも、ネカフェ難民でも通りそうな顔だった。

 

 つまり、どこにでもいる顔だ。

 神谷が窓を少し下げて言う。

 

「こいつ、まだ自分がそんな悪いことしてない顔なんだよな」

 

 大翔は何も言わなかった。

 言い訳を用意してきた顔ではない。

 

 たぶん車の中ですでに、1回詰められていて口が乾いてるのだろう。

 

 直人はできるだけ普通の声で聞いた。

 

「何で飛んだの」

 

 大翔は少し遅れて答える。

 

「飛んでないです」

 

 その返しの瞬間、神谷が小さく笑った。

 笑ったというより、鼻で切った。

 

「それだよ」

 

 神谷が言う。

 

「その、まだ誤差みたいに言う感じ」

 

 大翔は視線を落としたまま続けた。

 

「携帯止まってて、連絡できなくて」

 

「今動いてんじゃん」

 

「今日やっと払えて」

 

「どの金で?」

 

 神谷の声は低かった。

 

 怒鳴らない。

 怒鳴らないから、逆に逃げ場がない。

 

「持ち逃げした口座、どこ流した」

 

「売ってないです」

 

「じゃあ今どこにあんの」

 

「……」

 

「答えろよ」

 

 沈黙が少し長くなった。

 

 その間に、後部座席の知らない男がドアを開けて降りてきた。

 

 背が高い。

 無言。

 腕だけが太い。

 

 こういう男が1人立つと、それだけで会話が雑に暴力へ近づくのが、直人は少し嫌だった。

 

 嫌だと思うくらいの感覚は、まだ残っていた。

 

「なくしたんです」

 

 大翔がようやく言った。

 

「は?」

 

 神谷の声が少しだけ低くなる。

 

「なくしたって何」

 

「ほんとに、どっかで……」

 

 そこで直人は、ああだめだと思った。

 言い訳の中でも最悪の部類だった。

 嘘でも本当でも、相手を舐めてる感じが出るからだ。

 

 神谷が車から降りる。

 

 夜の空気が少し張る。

 

「なくした、で済むなら楽だよな」

 

 大翔は1歩だけ下がった。

 

 でも狭い場所だから、すぐ壁に当たる。

 

 直人はそこで、まだ言葉で終わらせられるかを少し考えた。

 

「とりあえず場所だけ思い出せば」

 

「いや」

 

 神谷が遮る。

 

「思い出さないだろ、こいつ」

 

 その言い方に、後ろの男が小さく笑った。

 

 それがよくなかった。

 誰かが笑うと、場の空気が一気に人を使う方向へ倒れる。

 

 大翔も、それを感じたのだろう。

 

 急に早口になった。

 

「ほんとに払うつもりはあって、でも最近ネカフェで、荷物まとめてて、その時に」

 

 神谷の手が先に出た。

 平手だった。

 

 乾いた音がして、大翔の顔が横へずれた。

 

 強烈ではない。

 でも、その1発で今夜の線は越えた。

 直人は口の中で少し舌打ちしたくなった。

 

 ここから先は、もう「脅すだけ」で終わりにくい。

 

 大翔は頬を押さえたまま、何も言わなかった。

 泣きもしない。

 その代わり、目だけが完全に怯えた。

 神谷は近づいて言う。

 

「こっちも暇じゃねえんだよ」

 

「……すみません」

 

「謝るなら最初にやれ」

 

「ほんとに、払うんで」

 

「だから何で払うんだよ」

 

 大翔は答えられない。

 

 払うと言うやつほど、払う当てがない。

 直人は何度も見てきた。

 

 でも、答えられない沈黙は、見てる人間の苛立ちを増やす。

 

 特に、神谷みたいなタイプには。

 直人は1歩だけ前へ出た。

 

「大翔、口座がないなら流した先か渡した相手か、せめてそこ出せ」

 

「いないです」

 

「いないわけねえだろ」

 

「ほんとです」

 

「じゃあお前が抱えてんの?」

 

「……」

 

 その沈黙で、たぶん何かはあると分かる。

 

 自分で使ったか。

 もっと雑なところへ投げたか。

 あるいは、別の連中に安く流したか。

 

 どれにしても、言えない時点で終わっている。

 

 神谷が大翔の胸ぐらを掴んだ。

 

「ほんとです、しか言わねえなら、こっちもそれ用の話し方になるけど」

 

 大翔の喉が動く。

 

 直人はそれを見ながら、ここで終わればいいのにと思った……思ったが、もう神谷の顔が止まらないのも分かった。

 

 周りに見せる顔になっている。

 下の連中にも、知らない男にも直人にも。

 こういう時の神谷は、自分のためだけじゃなく空気のためにやる。

 

 それがいちばん厄介だった。

 

「金ないなら身体で返せって言ったら、お前できんの?」

 

 神谷が言う。

 大翔は首を振った。

 

「できないです」

 

「じゃあ何でそんな簡単に飛んだの」

 

「……もう、無理だったから」

 

 その一言で、直人は少しだけ目を上げた。

 

 無理だった。

 それは多分、本音だった。

 けれど、本音が通る場じゃない。

 神谷もそれを分かっているから、逆に苛立つ。

 

「無理で済むなら、みんな無理だよ」

 

 次は膝だった。

 

 腹へ浅く入る。

 大翔が折れる。

 壁に手をつく。

 吐きそうな音が出る。

 

 直人はそこで、少し強く言った。

 

「神谷さん、そのへんで」

 

 神谷が振り向く。

 その目だけで、今口を挟むなと言っている。

 

 直人は一瞬だけ黙った。

 こういう時に引くと、自分まで弱く見える。

 

 でも出すぎると、今度は自分が詰められる。

 その中間で立っているのが、下っ端のいちばん嫌なところだった。

 

 後ろの男がぼそっと言う。

 

「このくらいじゃ覚えないっしょ」

 

 その一言で、また空気が悪くなる。

 見ているだけのやつが言う言葉は、だいたい状況を1段悪くする。

 

 直人はその男が嫌いになる、名前も知らないくせに、こういう時だけ場に乗るやつ。

 

 神谷は大翔の髪を掴んで顔を上げさせた。

 

「なあ……見せるもん見せないと、ほんとに周りが雑になるんだよ」

 

 見せるもん。

 見せしめのことだ。

 

 つまり今、大翔は本人の失敗以上の役目を押しつけられている。

 

 ここで痛い目を見れば次のやつが少しびびる。

 それだけのために、殴られる。

 

 直人はその構造を知っているし、自分もその一部なのだからこそ、たまに胃の奥が冷える。

 

 神谷がもう1発いこうとした時、大翔が急に吐いた。

 

 足元に。

 胃液みたいな、薄い色のやつ。

 神谷が舌打ちして手を離す。

 

「きっしょ」

 

 そこで一瞬だけ、場の熱が切れた。

 暴力は、こういう気持ち悪い現実に触れると少し止まることがある。

 

 血より、吐瀉物の方が空気を冷やす時がある。

 

 大翔はしゃがみこんだまま、肩で息をしていた。

 頬が腫れ始めている。

 でも骨はいっていない。

 

 たぶん。

 

 神谷は靴の先を見て、心底嫌そうな顔をした。

 

「もういいわ」

 

 その「もういい」は、許したという意味じゃない、今日はここまで、というだけだ。

 

「次、金曜までに連絡よこせ」

 

 大翔は答えない。

 答えないから、神谷がもう1回言う。

 

「分かったか」

 

「……はい」

 

「口座の件も吐け」

 

「……はい」

 

「次飛んだら、今日より軽く済むと思うなよ」

 

 それで終わった。

 終わったというより、今夜はそこで切っただけだった。

 

 直人は大翔を1度だけ見た。

 若い。

 

 でも、もうこの手の若さはあまり感じなくなっていて、ネカフェでも闇バイトでも立ちんぼの周りでも、こういう顔を見すぎているからだ。

 

 神谷が車に戻りながら言う。

 

「片桐、駅まで送るぞ」

 

 直人はうなずいた。

 

 大翔はその場に置いたままだ。

 死なない程度。

 歩ける程度。

 

 そこだけは、みんな妙に正確にやる。

 車に乗ると、神谷は何事もなかったみたいにコンビニの話をした。

 

「このへんで煙草安いとこなくね?」

 

 直人は少しだけ笑った。

 

「どこも一緒でしょ」

 

「いや、なんか損してる感じあるんだよな」

 

 さっき人を殴っていた男が、数分後には煙草の値段の話をする。

 

 その切り替わりが、直人は毎回少しだけ怖い。

 怖いのに、自分も普通に返している。

 そこがもっと怖かった。

 

 途中でコンビニに寄った。

 神谷は缶コーヒーを買い、直人は煙草を買った。

 

 レジの店員は何も見ていない。

 見えてもいない。

 

 直人はガラスに映る自分の顔を見た。

 変わっていない。

 

 少なくとも外からは、さっきまで人の顔を壁に押しつけていた男には見えない。

 

 神谷が先に外へ出る。

 

 直人は少し遅れて店を出た。

 夜風が顔に当たる。

 ポケットの中でスマホが震えた。

 知らない番号からだった。

 

 出ない。

 

 たぶんまた別件だ。

 飛んだやつか、口座か、女、金か。

 

 そういう話しか夜には来ない。

 

 火をつけて、1口吸う。

 煙は普通だった。

 さっきのことが、もう少し前のことみたいに感じる。

 

 直人はその感覚に少しだけ吐き気がした。

 

 殴った方じゃない。

 止めようとした。

 自分ではそう思っている。

 でも結局、止まってはいない。

 

 見ていたし、乗っていたし、最後は普通にコンビニで煙草を買っている。

 

 見せしめというのは、殴られた側に傷が残るだけじゃない。

 

 見ていた側にも、少しずつ「このくらいなら普通」が残っていく。

 

 それがいちばんまずいのだと、直人はたぶんもう知っていた。

 

 知っていて、次もたぶん同じ車に乗るのだろうとも思っていた。

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