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リセット  作者: ナオ
21/79

21話 巡回

 22時を過ぎると、池袋の北口は少しだけ呼吸の仕方が変わる。


 昼の顔が完全に消えるわけじゃない。


 終電までに帰ろうとする会社員もいるし、買い物帰りの学生もまだいる。


 でも、その間に別のものが混ざり始める。


 帰りたくないやつ。

 帰れないやつ。


 この先の2時間だけを何とかやり過ごしたいやつ。


 そういう人間が、夜の街にはちゃんと浮いて見える。


 地域課の巡査部長、相沢修司は、池袋西口交番から北口方面へ歩きながら、横断歩道の向こうにいる若い女を見ていた。


 年は20代前半くらい。

 黒いダウンの下に短いスカート。


 スマホを見ているふりをして、実際は通りを見ている。


 立ち位置も悪くない。

 ホテル街へ入る手前。

 通報されにくく、でも客は拾いやすい場所だ。


 修司は39歳だった。

 警察官になって16年。


 最初は交番勤務、そのあと機動隊へ短く回されて、また地域へ戻ってきた。


 事件らしい事件も見た。

 人が死ぬ現場も見た。

 泣き崩れる家族も、逆にひどく静かな家族も見た。


 その全部を通ってきて、今は夜の池袋を巡回している。

 

 若い頃みたいに、何かあるたび腹が立つことは減った。

 

 その代わり、何が起きそうかは前より早く分かる。

 

 分かるから、驚かなくなる。

 驚かなくなると、自分がまともなのかどうか、たまに少し分からなくなる。

 

「相沢さん」

 

 横から、若い巡査の杉本が声をかけた。

 

 まだ25だ。

 靴が新しい。

 歩き方も、まだ少し真面目すぎる。

 

「いたっすね」

 

「いるよ」

 

「声かけます?」

 

 修司は女から目を離さないまま答えた。

 

「かけるけど、追うなよ」

 

「はい」

 

 2人で横断歩道を渡る。

 女は警察が向かってくるのを見て、すぐにスマホへ目を落とした。

 その動きも、もう慣れている感じだった。

 

「こんばんは」

 

 修司が声をかける。

 

 女は顔を上げた。

 

「はい」

 

「こんな時間に何してるの」

 

「待ち合わせです」

 

 即答だった。

 だいたいそう言う。

 

 待ち合わせ、友達待ち、彼氏待ち、終電逃して、ただ休んでただけ。

 言い方は違っても、街に立っている理由の輪郭はそこまで違わない。

 

「誰待ち」

 

「友達です」

 

「何て子」

 

 女は少しだけ詰まった。

 

 その詰まり方で、修司はもう半分分かる。

 この子はたぶん立っている。

 

 でも補導して署へ連れていくほどでもない。

 

 未成年にも見えない。

 

 薬物で飛んでる感じも今のところない。

 

 つまり、警察としてはいちばん扱いに困る線だった。

 

「何歳」

 

「23です」

 

「身分ある?」

 

 女は嫌そうな顔をしたが、財布から保険証を出した。

 

 本当に23だった。

 

 杉本が横で少しだけ空気を変える。

 

「この辺、トラブル多いから気をつけてね」

 

 やさしい言い方だった。

 

 若いやつはまだそういう言い方をする。

 そのやさしさで帰る女も、たまにはいる。

 でも大半は帰らない。

 帰れない理由の方が強いからだ。

 

 修司は保険証を返しながら言った。

 

「今日はもう移動しとけ」

 

「はあ」

 

「補導するほどじゃないけど、見てる側もいるから」

 

 女は何も言わず、保険証をしまった。

 

 礼も言わない。

 それでいいと思う。

 礼を言うような関係じゃない。

 

 2人が少し離れると、杉本が小声で言った。

 

「どうせまた戻りますよね」

 

「戻るよ」

 

「意味あります?」

 

 修司は少しだけ笑った。

 

「意味あることだけやってたら、夜勤なんか半分なくなる」

 

 杉本は返さなかった。

 その沈黙で、まだ納得していないのが分かる。

 

 でも、そのうち分かる。

 立ちんぼ1人どかしたところで、街は何も変わらない。

 

 それでも声をかける。

 意味があるからじゃない。

 

 意味がないまま悪くなるのを、少しでも遅らせるためだ。

 それを正義と呼ぶには、たぶん少し鈍すぎる。

 

 通報が入ったのは22時40分だった。

 ホテル前で男女が揉めている、という内容。

 

 北口の裏手へ急ぐと、20代後半くらいの男と、30代前後の女が路上で怒鳴り合っていた。

 

 男は酔っている。

 女は泣いているが、泣き方が本気じゃない。

 

 いや……本気ではあるのだろうが、もう何度も同じことをやっている泣き方だった。

 

「どうしました」

 

 修司が割って入ると、男が先に言った。

 

「こいつが急に金上げろとか言ってきて」

 

 女がすぐ被せる。

 

「最初に言っただろ」

 

「言ってねえよ」

 

「言った」

 

 またこのパターンか、と修司は思う。

 ホテル前の揉め事は痴話喧嘩か、立ちんぼ絡みか、飲み屋の延長か、だいたいその3つだ。

 

 今回は2番目っぽかった。

 

 女の服装。

 

 男の財布を握った手。

 

 ホテルの入口から5歩しか離れていない立ち位置。

 

 全部それっぽい。

 でも、本人たちはそう言わない。

 言った瞬間、面倒が増えるからだ。

 

「いったん離れて」

 

 修司は男を杉本に預け、女の方を少し端へ寄せた。

 

「何があった」

 

「別に」


「別にじゃねえだろ」

 

「……条件違っただけです」

 

 やっぱりな、と思った。

 

 条件違い。

 

 この街では便利すぎる言葉だ。

 最初に聞いていた金額と違う。

 話していた内容と違う。

 やることが違う。

 相手の態度が違う。

 

 全部それで言える。

 

「最初にいくらって話してた」

 

 女は少し黙ったあとで言った。

 

「2」

 

 男はすぐに怒鳴る。

 

「1.5だろ」

 

 修司はそっちを見ずに続ける。

 

「先払い?」

 

「半分だけ」

 

 そこまで聞けば十分だった。

 事件にするには薄い。

 でも、放っておくとまた同じことが起きる。

 

 修司は男の方へ向き直る。

 

「今夜はもう帰って」

 

「はあ?」

 

「これ以上ここで揉めるなら、両方とも署来てもらう」

 

 男は露骨に顔をしかめた。

 署、と言われると急にだるくなるやつは多い。

 立件されるわけじゃなくても、名前を書かされるだけで面倒だからだ。

 

 結局、男は舌打ちして去った。

 

 女も反対方向へ歩いた。

 

 礼も何もない。

 修司はそれでいいと思った。

 

 感謝される仕事じゃないし、していることも結局は、その場を散らしただけだ。

 

「相沢さん」

 

 杉本が言う。

 

「今の、捕まえなくていいんですか」

 

「何で」

 

「売春じゃないですか」

 

 修司は少しだけ息を吐いた。

 

「立件するなら、もう少し材料いる」

 

「でも」

 

「でも、じゃねえよ」

 

 少し強く言いすぎたと思ったが、言い直さなかった。

 

「お前、全部事件にできると思ってるだろ」

 

 杉本は黙る。

 

「できねえよ」

 

 修司は歩きながら言った。

 

「本人が全部しゃべるとも限らねえし、しゃべったところで明日にはまた立つやつもいる」

 

「……はい」

 

「はい、じゃなくて、覚えとけ」

 

 覚えとけ、のあとで、自分の言い方が少し嫌になった。

 若い時、自分が先輩にされた言い方に似ていたからだ。

 

 でも、夜の街に長くいると、説明がだんだん短くなる。

 

 全部丁寧に話していたら、通報の方が先に溜まる。

 

 23時半、今度は交番へ女が来た。

 

 20代半ば。

 顔色が白い。

 マスクをしているが、目元だけでかなり疲れているのが分かる。

 

「相談したいことがあって」

 

 修司は椅子を勧めた。

 

「何の」

 

「薬、たぶん、やばいの飲まされて」

 

 その一言で、修司の頭の中に選択肢がいくつか浮かぶ。

 

 違法薬物か。

 市販薬か。

 処方薬の混ぜか。

 男に盛られたのか、自分で飲んだのか。

 

 でも、まずそこを急がない。

 

「いつ」

 

「昨日の夜」

 

「どこで」

 

「分かんないです……たぶん……ホテル」

 

 分かんないです、の言い方で、修司は少しだけ嫌な予感がした。

 記憶が飛んでいる。

 

 それに加えて、女の話し方が妙に慎重だ。

 

 全部を言うと自分も傷つくと分かっている人間の話し方だった。

 

「誰といた」

 

「男の人」

 

「知り合い?」

 

「アプリで会った人」

 

 またか、と思う。

 

 アプリ。

 パパ活。

 マッチング。

 店外。

 

 もう珍しくない。

 珍しくないのが嫌だった。

 

 女は途中で何度も言葉に詰まった。

 

 ホテルへ行ったこと。

 金をもらう話だったこと。

 

 でも途中でお酒を飲んで、気づいたら朝だったこと。

 

 財布の中の金額が少し増えていて、身体だけが変だったこと。

 

 修司は黙って聞きながら、心の中で線を引いていく。

 

 被害届まで行けるか。

 

 証拠はあるか。

 

 ホテルは特定できるか。

 

 相手のアカウントは残っているか。

 

 体液採取がまだ間に合うか。

 

 そういうことを考えるのは仕事だ。

 

 仕事だが、その順番に慣れすぎた自分も少し嫌だった。

 

 女がようやく黙る。

 

「……被害届、出せますか」

 

 修司はすぐには答えなかった。

 

 答えを知っていたからだ。

 出すこと自体はできる。

 でも受理後にどこまで行けるかは、別の話だ。

 証拠が薄い。

 本人も全部をはっきり言えていない。

 何より、金が絡んでいる。

 

 その瞬間、事件が一気に面倒な顔をする。

 

「出すことはできる」

 

 修司は言った。

 

「ただ、今日のうちに病院行った方がいい」

 

 女の目が少しだけ揺れる。

 

「今からですか」

 

「今から」

 

「……親にバレますか」

 

 その質問が先に来るのが、この街らしかった。

 

 痛いかどうかより、親にバレるか。

 被害があったかより、警察沙汰になるか。

 

 壊れる時の順番が、みんな少しだけ歪んでいる。

 

 修司は低い声で言った。

 

「バレるかどうかより、先に確認した方がいい」

 

 女はうつむいたまま、小さくうなずいた。

 

 杉本が病院への連絡を取る。

 その様子を見ながら、修司は窓の外を見た。

 

 交番の前を、さっき声をかけた立ちんぼらしい女がまた通っていくのが見えた。

 

 結局戻る。

 

 そういう街だ。

 

 深夜1時前、巡回へ戻る途中で、修司はコンビニ前に座り込んでいる若い男を見つけた。

 

 20代前半。

 フードをかぶって、膝に顔を埋めている。

 

 酔っているのかと思ったが、近づくと違った。

 

 呼吸が浅い。

 

 手が少し震えている。

 

「どうした」

 

 修司が声をかけると、男は顔を上げた。

 

 見覚えがある気がした。

 どこで見たのか、一瞬では思い出せない。

 

「……大丈夫です」

 

「大丈夫な顔じゃねえだろ」

 

「平気です」

 

 その言い方で、修司はああと思った。

 

 前にもどこかで見た。

 たぶん受け子か、事情聴取に来た若いやつだ。

 この街の若い男は、金がない時と怯えてる時の顔がよく似る。

 

「家帰れるか」

 

「帰れます」

 

「じゃあ立て」

 

 男は立ち上がろうとして、少しふらついた。

 

 薬か、寝不足か、酒か、全部か。

 修司は一瞬だけ、病院へ回すか迷った。

 

 でも、その男は「大丈夫です」を繰り返すだけだった。

 

 こういう時、人は助けを断る。

 断る自由がある以上、警察ができることは急に細くなる。

 修司は結局、水だけ買って渡した。

 

「これ飲んで、今日は帰れ」

 

 男は小さく受け取った。

 

「……すみません」

 

 謝る声だけ妙に素直だった。

 修司はもう何も言わず、その場を離れた。

 

 杉本が横で聞く。

 

「相沢さん、今の子、やばくなかったですか」

 

「やばかったよ」

 

「じゃあ何で」

 

 修司は歩きながら答えた。

 

「毎回全部担いでたら、こっちが先に潰れる」

 

 杉本はまた黙った。

 それが正しいのか、自分でもたまに分からない。

 

 でも、夜の街にいる警察は、全部に本気で反応していたら持たない。

 

 だから慣れる。

 泣いている女にも。

 ふらつく若い男にも。

 ホテル前の揉め事にも。

 

 慣れたまま、最低限だけ拾って歩く。

 その最低限の線が、少しずつ自分の中で下がっていくのが、たぶんいちばん怖い。

 

 2時を回った頃、署から無線が入った。

 北口のホテル街近くで、若い女が倒れて救急搬送。

 

 意識はあるが会話が曖昧。

 薬物反応の可能性。

 

 修司は立ち止まった。

 頭の中で、さっき交番へ来た女の顔がよぎる。

 

 でも年齢が違う気もする。

 立ちんぼの女かもしれない。

 別の誰かかもしれない。

 

 この街では、似た顔の壊れ方が多すぎる。

 

「行きますか」

 

 杉本が聞く。

 

 修司は小さくうなずいた。

 

「行くよ」

 

 それだけ言って歩き出す。

 またか、と思っている自分がいた。

 

 その「またか」が、いちばん嫌だった。

 嫌なのに、次の角を曲がる頃には、もう表情はいつもの顔に戻っている。

 

 夜の池袋では、それがいちばん仕事になる顔だからだ。

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