21話 巡回
22時を過ぎると、池袋の北口は少しだけ呼吸の仕方が変わる。
昼の顔が完全に消えるわけじゃない。
終電までに帰ろうとする会社員もいるし、買い物帰りの学生もまだいる。
でも、その間に別のものが混ざり始める。
帰りたくないやつ。
帰れないやつ。
この先の2時間だけを何とかやり過ごしたいやつ。
そういう人間が、夜の街にはちゃんと浮いて見える。
地域課の巡査部長、相沢修司は、池袋西口交番から北口方面へ歩きながら、横断歩道の向こうにいる若い女を見ていた。
年は20代前半くらい。
黒いダウンの下に短いスカート。
スマホを見ているふりをして、実際は通りを見ている。
立ち位置も悪くない。
ホテル街へ入る手前。
通報されにくく、でも客は拾いやすい場所だ。
修司は39歳だった。
警察官になって16年。
最初は交番勤務、そのあと機動隊へ短く回されて、また地域へ戻ってきた。
事件らしい事件も見た。
人が死ぬ現場も見た。
泣き崩れる家族も、逆にひどく静かな家族も見た。
その全部を通ってきて、今は夜の池袋を巡回している。
若い頃みたいに、何かあるたび腹が立つことは減った。
その代わり、何が起きそうかは前より早く分かる。
分かるから、驚かなくなる。
驚かなくなると、自分がまともなのかどうか、たまに少し分からなくなる。
「相沢さん」
横から、若い巡査の杉本が声をかけた。
まだ25だ。
靴が新しい。
歩き方も、まだ少し真面目すぎる。
「いたっすね」
「いるよ」
「声かけます?」
修司は女から目を離さないまま答えた。
「かけるけど、追うなよ」
「はい」
2人で横断歩道を渡る。
女は警察が向かってくるのを見て、すぐにスマホへ目を落とした。
その動きも、もう慣れている感じだった。
「こんばんは」
修司が声をかける。
女は顔を上げた。
「はい」
「こんな時間に何してるの」
「待ち合わせです」
即答だった。
だいたいそう言う。
待ち合わせ、友達待ち、彼氏待ち、終電逃して、ただ休んでただけ。
言い方は違っても、街に立っている理由の輪郭はそこまで違わない。
「誰待ち」
「友達です」
「何て子」
女は少しだけ詰まった。
その詰まり方で、修司はもう半分分かる。
この子はたぶん立っている。
でも補導して署へ連れていくほどでもない。
未成年にも見えない。
薬物で飛んでる感じも今のところない。
つまり、警察としてはいちばん扱いに困る線だった。
「何歳」
「23です」
「身分ある?」
女は嫌そうな顔をしたが、財布から保険証を出した。
本当に23だった。
杉本が横で少しだけ空気を変える。
「この辺、トラブル多いから気をつけてね」
やさしい言い方だった。
若いやつはまだそういう言い方をする。
そのやさしさで帰る女も、たまにはいる。
でも大半は帰らない。
帰れない理由の方が強いからだ。
修司は保険証を返しながら言った。
「今日はもう移動しとけ」
「はあ」
「補導するほどじゃないけど、見てる側もいるから」
女は何も言わず、保険証をしまった。
礼も言わない。
それでいいと思う。
礼を言うような関係じゃない。
2人が少し離れると、杉本が小声で言った。
「どうせまた戻りますよね」
「戻るよ」
「意味あります?」
修司は少しだけ笑った。
「意味あることだけやってたら、夜勤なんか半分なくなる」
杉本は返さなかった。
その沈黙で、まだ納得していないのが分かる。
でも、そのうち分かる。
立ちんぼ1人どかしたところで、街は何も変わらない。
それでも声をかける。
意味があるからじゃない。
意味がないまま悪くなるのを、少しでも遅らせるためだ。
それを正義と呼ぶには、たぶん少し鈍すぎる。
通報が入ったのは22時40分だった。
ホテル前で男女が揉めている、という内容。
北口の裏手へ急ぐと、20代後半くらいの男と、30代前後の女が路上で怒鳴り合っていた。
男は酔っている。
女は泣いているが、泣き方が本気じゃない。
いや……本気ではあるのだろうが、もう何度も同じことをやっている泣き方だった。
「どうしました」
修司が割って入ると、男が先に言った。
「こいつが急に金上げろとか言ってきて」
女がすぐ被せる。
「最初に言っただろ」
「言ってねえよ」
「言った」
またこのパターンか、と修司は思う。
ホテル前の揉め事は痴話喧嘩か、立ちんぼ絡みか、飲み屋の延長か、だいたいその3つだ。
今回は2番目っぽかった。
女の服装。
男の財布を握った手。
ホテルの入口から5歩しか離れていない立ち位置。
全部それっぽい。
でも、本人たちはそう言わない。
言った瞬間、面倒が増えるからだ。
「いったん離れて」
修司は男を杉本に預け、女の方を少し端へ寄せた。
「何があった」
「別に」
「別にじゃねえだろ」
「……条件違っただけです」
やっぱりな、と思った。
条件違い。
この街では便利すぎる言葉だ。
最初に聞いていた金額と違う。
話していた内容と違う。
やることが違う。
相手の態度が違う。
全部それで言える。
「最初にいくらって話してた」
女は少し黙ったあとで言った。
「2」
男はすぐに怒鳴る。
「1.5だろ」
修司はそっちを見ずに続ける。
「先払い?」
「半分だけ」
そこまで聞けば十分だった。
事件にするには薄い。
でも、放っておくとまた同じことが起きる。
修司は男の方へ向き直る。
「今夜はもう帰って」
「はあ?」
「これ以上ここで揉めるなら、両方とも署来てもらう」
男は露骨に顔をしかめた。
署、と言われると急にだるくなるやつは多い。
立件されるわけじゃなくても、名前を書かされるだけで面倒だからだ。
結局、男は舌打ちして去った。
女も反対方向へ歩いた。
礼も何もない。
修司はそれでいいと思った。
感謝される仕事じゃないし、していることも結局は、その場を散らしただけだ。
「相沢さん」
杉本が言う。
「今の、捕まえなくていいんですか」
「何で」
「売春じゃないですか」
修司は少しだけ息を吐いた。
「立件するなら、もう少し材料いる」
「でも」
「でも、じゃねえよ」
少し強く言いすぎたと思ったが、言い直さなかった。
「お前、全部事件にできると思ってるだろ」
杉本は黙る。
「できねえよ」
修司は歩きながら言った。
「本人が全部しゃべるとも限らねえし、しゃべったところで明日にはまた立つやつもいる」
「……はい」
「はい、じゃなくて、覚えとけ」
覚えとけ、のあとで、自分の言い方が少し嫌になった。
若い時、自分が先輩にされた言い方に似ていたからだ。
でも、夜の街に長くいると、説明がだんだん短くなる。
全部丁寧に話していたら、通報の方が先に溜まる。
23時半、今度は交番へ女が来た。
20代半ば。
顔色が白い。
マスクをしているが、目元だけでかなり疲れているのが分かる。
「相談したいことがあって」
修司は椅子を勧めた。
「何の」
「薬、たぶん、やばいの飲まされて」
その一言で、修司の頭の中に選択肢がいくつか浮かぶ。
違法薬物か。
市販薬か。
処方薬の混ぜか。
男に盛られたのか、自分で飲んだのか。
でも、まずそこを急がない。
「いつ」
「昨日の夜」
「どこで」
「分かんないです……たぶん……ホテル」
分かんないです、の言い方で、修司は少しだけ嫌な予感がした。
記憶が飛んでいる。
それに加えて、女の話し方が妙に慎重だ。
全部を言うと自分も傷つくと分かっている人間の話し方だった。
「誰といた」
「男の人」
「知り合い?」
「アプリで会った人」
またか、と思う。
アプリ。
パパ活。
マッチング。
店外。
もう珍しくない。
珍しくないのが嫌だった。
女は途中で何度も言葉に詰まった。
ホテルへ行ったこと。
金をもらう話だったこと。
でも途中でお酒を飲んで、気づいたら朝だったこと。
財布の中の金額が少し増えていて、身体だけが変だったこと。
修司は黙って聞きながら、心の中で線を引いていく。
被害届まで行けるか。
証拠はあるか。
ホテルは特定できるか。
相手のアカウントは残っているか。
体液採取がまだ間に合うか。
そういうことを考えるのは仕事だ。
仕事だが、その順番に慣れすぎた自分も少し嫌だった。
女がようやく黙る。
「……被害届、出せますか」
修司はすぐには答えなかった。
答えを知っていたからだ。
出すこと自体はできる。
でも受理後にどこまで行けるかは、別の話だ。
証拠が薄い。
本人も全部をはっきり言えていない。
何より、金が絡んでいる。
その瞬間、事件が一気に面倒な顔をする。
「出すことはできる」
修司は言った。
「ただ、今日のうちに病院行った方がいい」
女の目が少しだけ揺れる。
「今からですか」
「今から」
「……親にバレますか」
その質問が先に来るのが、この街らしかった。
痛いかどうかより、親にバレるか。
被害があったかより、警察沙汰になるか。
壊れる時の順番が、みんな少しだけ歪んでいる。
修司は低い声で言った。
「バレるかどうかより、先に確認した方がいい」
女はうつむいたまま、小さくうなずいた。
杉本が病院への連絡を取る。
その様子を見ながら、修司は窓の外を見た。
交番の前を、さっき声をかけた立ちんぼらしい女がまた通っていくのが見えた。
結局戻る。
そういう街だ。
深夜1時前、巡回へ戻る途中で、修司はコンビニ前に座り込んでいる若い男を見つけた。
20代前半。
フードをかぶって、膝に顔を埋めている。
酔っているのかと思ったが、近づくと違った。
呼吸が浅い。
手が少し震えている。
「どうした」
修司が声をかけると、男は顔を上げた。
見覚えがある気がした。
どこで見たのか、一瞬では思い出せない。
「……大丈夫です」
「大丈夫な顔じゃねえだろ」
「平気です」
その言い方で、修司はああと思った。
前にもどこかで見た。
たぶん受け子か、事情聴取に来た若いやつだ。
この街の若い男は、金がない時と怯えてる時の顔がよく似る。
「家帰れるか」
「帰れます」
「じゃあ立て」
男は立ち上がろうとして、少しふらついた。
薬か、寝不足か、酒か、全部か。
修司は一瞬だけ、病院へ回すか迷った。
でも、その男は「大丈夫です」を繰り返すだけだった。
こういう時、人は助けを断る。
断る自由がある以上、警察ができることは急に細くなる。
修司は結局、水だけ買って渡した。
「これ飲んで、今日は帰れ」
男は小さく受け取った。
「……すみません」
謝る声だけ妙に素直だった。
修司はもう何も言わず、その場を離れた。
杉本が横で聞く。
「相沢さん、今の子、やばくなかったですか」
「やばかったよ」
「じゃあ何で」
修司は歩きながら答えた。
「毎回全部担いでたら、こっちが先に潰れる」
杉本はまた黙った。
それが正しいのか、自分でもたまに分からない。
でも、夜の街にいる警察は、全部に本気で反応していたら持たない。
だから慣れる。
泣いている女にも。
ふらつく若い男にも。
ホテル前の揉め事にも。
慣れたまま、最低限だけ拾って歩く。
その最低限の線が、少しずつ自分の中で下がっていくのが、たぶんいちばん怖い。
2時を回った頃、署から無線が入った。
北口のホテル街近くで、若い女が倒れて救急搬送。
意識はあるが会話が曖昧。
薬物反応の可能性。
修司は立ち止まった。
頭の中で、さっき交番へ来た女の顔がよぎる。
でも年齢が違う気もする。
立ちんぼの女かもしれない。
別の誰かかもしれない。
この街では、似た顔の壊れ方が多すぎる。
「行きますか」
杉本が聞く。
修司は小さくうなずいた。
「行くよ」
それだけ言って歩き出す。
またか、と思っている自分がいた。
その「またか」が、いちばん嫌だった。
嫌なのに、次の角を曲がる頃には、もう表情はいつもの顔に戻っている。
夜の池袋では、それがいちばん仕事になる顔だからだ。




