19話 立ちんぼ
最初は、待ち合わせのつもりだった。
そう言えば、まだ少しだけましに聞こえる。
誰かと会うだけ。
少し話すだけ。
そのあとどうするかは、その場で決まるだけ。
でも実際には、決まる前からだいたい決まっていた。
桜井萌は23歳だった。
池袋北口の外れ、ホテル街へ入る少し手前の道で、壁に寄りかかるふりをして立っていた。
時刻は23時40分。
雨は止んでいたが、空気は湿っている。
コンビニの白い明かりが、濡れた路面にだけ残っていた。
萌は昔、普通に働いていた。
渋谷のアパレル。
立ち仕事で、給料は安くて、でも少なくとも昼と夜の区別はあった。
そこを辞めたのは、店長と揉めたからでも、服が好きじゃなくなったからでもない……客に合わせて笑うのが、急に無理になったからだった。
もともと得意ではなかった。
でも20歳の頃は、若さで押せた。
22を過ぎたあたりから、自分が雑に扱われる時の空気だけは、やけに分かるようになった。
辞めてからは、コンカフェもやった。
ガールズバーもやった。
昼夜逆転して、家賃が遅れて、携帯が止まりかけて、友達とも会わなくなった。
そういう流れの中で、知り合いの女に言われた。
「立つだけでいい日もあるよ」
立つだけ。
その言い方が、いちばん嘘だった。
でも、その時の萌には都合がよかった。
店に入るのは嫌だった。
面接も、写真も、源氏名も、内勤の男に管理されるのも嫌だった。
立ちんぼなら自由だと思った。
好きな日に立てる。
嫌な客は断れる。
抜かれない。
そう聞いた。
実際には、全部半分だけ本当だった。
自由はある。
でも守られない。
嫌な客は断れる。
でも断りすぎると、その日の家賃が消える。
店に抜かれない。
でもその分、全部自分で背負う。
危ない客も。
警察も。
同業の女との場所取りも。
最初に立った夜、萌は本当に何もできなかった。
声のかけ方も、目線の合わせ方も分からない。
ただスマホを見て、立って、寒くなって帰った。
でも2日目で、隣に立っていた年上の女が教えた。
「黙って立ってると地蔵っぽくなるから、少しだけ歩いた方がいいよ」
「へえ」
「あと、最初に金の話しないとだるい客いる」
「そんなすぐ聞くんですか」
「聞かないと持ってかれるだけ」
持ってかれる。
その言葉が妙に現実的だった。
この辺で立っている女は、みんな何かを少しずつ失いながら立っている。
時間。
金。
顔。
身体。
たぶん、その順番も人それぞれだった。
今夜の萌は黒いダウンの下に、薄いニットワンピースを着ていた。
寒いが、厚着しすぎると声がかからない。
逆に露骨だと警察に目をつけられる。
その中間を探るのも慣れだった。
スマホが震えた。
家賃保証会社からの自動メッセージ。
『お支払いの確認が取れておりません』
確認が取れておりません、という言い方も腹が立つ、取れていないんじゃなくて払えていないだけだから。
でも、ああいう文面はいつも、自分が少し行方不明みたいに書いてくる。
萌は通知を消して、少しだけ背筋を伸ばした。
通り過ぎる男が何人か見る。
見るだけで行く男。
1度通り過ぎてから戻ってくる男。
スマホをいじりながら、視線だけよこす男。
見分けはつくようになっていた。
いちばん面倒なのは、酔っていて、自分を客だと思っていない男だった。
買うというより、拾う感覚で来るやつ。
そういうやつは値段を聞くと不機嫌になる。
自分の都合だけが通ると思っているからだ。
0時を過ぎた頃、40代くらいの男が立ち止まった。
スーツ。
ネクタイは緩んでいる。
靴は少しだけ高そうだった。
「寒くない?」
そういう入り方をする男は多い。
気遣っている顔で始めるやつほど、あとが面倒なことも多い。
「まあ」
「このあとどうするの」
「条件次第」
萌は最初から金額を言わなかった。
相手に言わせた方が、その後に揉めにくい。
男は少し笑った。
「いくら」
「ホテル別で2」
男はすぐには返さなかった。
顔だけで、少し高いと思っているのが分かる。
「高くない?」
「じゃあいいです」
萌はすぐに切ろうとした。
このへんで長引く会話はだいたい損だ。
男は慌てて言った。
「待って、1.5で」
「無理」
「1.8」
萌は少しだけ考えるふりをした。
本当は、家賃の通知を見たあとだったから、もう少し弱かった。
でも弱い顔をしたら、その夜は全部安くなる。
「じゃあ先払い」
「そこ信用ない?」
「最初はみんなない」
男は少しだけ嫌そうな顔をしたが、結局財布を出した。
こういう時、ちゃんと現金が出る男はまだ楽だ。
問題はこのあとだった。
ホテルへ向かう途中、男は仕事の話をした。
営業だと言った。
部下が使えない。
家に帰ってもつまらない。
妻とは冷めている。
そういう話ばかりだった。
萌は相槌を打った。
聞いていないわけではない。
でも、聞いたから何か変わるわけでもない。
男は途中で聞いてきた。
「こういうの、長いの?」
「別に」
「昼は何してんの」
「いろいろ」
「彼氏いる?」
そういう質問が始まると、客は少しずつ自分が特別だと思い始める。
萌はそれが嫌だった。
金を払っているだけの関係で、急に人間ぶってくる感じが。
「そういうの、関係あります?」
少し冷たく言うと、男は笑ってごまかした。
「いや、なんとなく」
ホテルの部屋は安っぽかった。
壁が薄くて、廊下の音が少し聞こえる。
こういう場所の方が、逆にまだ安全な気がする時がある。
高いホテルに連れていく男の方が、自分の余裕を見せたがる分だけ面倒なことがある。
終わるまで、男は想像していたより普通だった。
普通、という言い方も変だが、少なくとも乱暴ではなかった。
その代わり、帰る前に聞いた。
「また会える?」
萌は服を直しながら答えた。
「また気が向いたら」
「番号交換しない?」
「そういうのやってない」
男は少しだけ不満そうな顔をした。
「冷たいね」
萌はそこで、少し笑いそうになった。
さっきまで金で時間を買っていた男が、最後は冷たいかどうかを気にする。
その順番が、いつも少しだけおかしかった。
ホテルを出たあと、萌はコンビニで水を買った。
トイレの鏡で、自分の顔を見る。
メイクはほとんど落ちていない。
でも目の奥だけが疲れている。
スマホを見ると、さっきの男からメッセージが来ていた。
『今日はありがとう』
どうやって連絡先をと思って少し驚いたが、ホテルへ向かう途中に一度だけ、男が「予約のため」と言ってアカウントを見せた時に、自分の表示名を拾ったのだとすぐ分かった。
そういうところだけ、やけに手が早い。
萌は返信しなかった。
返すと、次の線ができる。
線ができると、値段が崩れる。
値段が崩れると、こっちがただの都合のいい女になる。
それだけは避けたかった。
深夜1時を過ぎると、通りの空気が少し荒れる。
泥酔した男。
3人組。
冷やかし。
警察の巡回。
立ちんぼは、その時間から急に立つ意味が変わる、選ぶんじゃなく、選ばれる前にやめるかどうかになる。
萌はもう1本いくか迷った。
家賃を考えると、行けた方がいい。
でも身体はだるい。
足も冷たい。
その時、道路の向こうで1人の女が警官に声をかけられていた。
若い子だった。
たぶん始めてまだ浅い。
立ち方が固いし、逃げ方も下手だった。
警官は何か言っている。
女は笑ってごまかしている。
その感じを見ているうちに、萌は急に疲れた。
この街には、ちょうどよく壊れる方法が多すぎる。
店に入る。
パパ活をする。
立つ。
飛ぶ。
どれも少しずつ違うだけで、最後はだいたい同じ場所へ向かう。
萌のスマホがまた震えた。
今度は母からだった。
『元気?』
その2文字だけで、少し吐きそうになった。
元気なわけがない。
でも、元気じゃないと言ったところで、何か変わるとも思えない。
萌はしばらく画面を見たあと、何も返さずに閉じた。
代わりに、さっきの男からのメッセージもブロックした。
意味があるかは分からない。
でも、ああいう「また会える?」を残しておくと、自分の方が少しずつ安くなる気がした。
2時前、萌はその日の最後のつもりでもう1人だけ相手を取った。
若かった。
25か26。
最初から金額で揉めた。
「1でいいじゃん」
「無理」
「立ってるだけでしょ」
その言い方に、萌は顔を上げた。
立ってるだけ。
そうだ。
外から見ればそう見える。
でも、その「立ってるだけ」の中に、いくつの通知と未払いと、見ないふりした感情が詰まっているかなんて、誰も知らない。
「じゃあ行かなくていいです」
萌がそう言うと、男は舌打ちした。
「感じ悪」
「そうですね」
萌はそれ以上話さず、道を渡ってコンビニの方へ歩いた。
追っては来なかった。
そのことに少しだけ安心して、少しだけ虚しくなった。
結局その夜、萌は2本だけで帰った。
足りるとは思えなかった。
でも、足りないまま帰るしかない夜もある。
始発近くの電車に乗って、窓に映る自分を見る。
ダウンの襟に顔を埋めたまま、ただの疲れた若い女に見えた。
それで少しだけほっとした。
立っていたことも、値段を言ったことも、ホテルへ入ったことも、その顔だけでは分からないからだ。
でも分からないまま、明日また家賃の通知は来る。
分からないまま、身体だけが少しずつ覚えていく。
立ちんぼは自由だと、最初は思っていた。
でも今は違う。
店に管理されていないだけで、金と夜にはちゃんと飼われているのだと、萌はもう知っていた。




