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リセット  作者: ナオ
19/79

19話 立ちんぼ

 最初は、待ち合わせのつもりだった。

 

 そう言えば、まだ少しだけましに聞こえる。

 

 誰かと会うだけ。

 少し話すだけ。

 そのあとどうするかは、その場で決まるだけ。

 

 でも実際には、決まる前からだいたい決まっていた。

 

 桜井萌は23歳だった。

 

 池袋北口の外れ、ホテル街へ入る少し手前の道で、壁に寄りかかるふりをして立っていた。

 

 時刻は23時40分。

 

 雨は止んでいたが、空気は湿っている。

 

 コンビニの白い明かりが、濡れた路面にだけ残っていた。

 

 萌は昔、普通に働いていた。

 

 渋谷のアパレル。

 立ち仕事で、給料は安くて、でも少なくとも昼と夜の区別はあった。

 

 そこを辞めたのは、店長と揉めたからでも、服が好きじゃなくなったからでもない……客に合わせて笑うのが、急に無理になったからだった。

 

 もともと得意ではなかった。

 でも20歳の頃は、若さで押せた。

 22を過ぎたあたりから、自分が雑に扱われる時の空気だけは、やけに分かるようになった。

 

 辞めてからは、コンカフェもやった。

 

 ガールズバーもやった。

 

 昼夜逆転して、家賃が遅れて、携帯が止まりかけて、友達とも会わなくなった。

 

 そういう流れの中で、知り合いの女に言われた。

 

「立つだけでいい日もあるよ」

 

 立つだけ。

 その言い方が、いちばん嘘だった。

 

 でも、その時の萌には都合がよかった。

 

 店に入るのは嫌だった。

 面接も、写真も、源氏名も、内勤の男に管理されるのも嫌だった。

 

 立ちんぼなら自由だと思った。

 

 好きな日に立てる。

 嫌な客は断れる。

 抜かれない。

 

 そう聞いた。

 

 実際には、全部半分だけ本当だった。

 

 自由はある。

 でも守られない。

 嫌な客は断れる。

 でも断りすぎると、その日の家賃が消える。

 店に抜かれない。

 

 でもその分、全部自分で背負う。

 

 危ない客も。

 警察も。

 同業の女との場所取りも。

 

 最初に立った夜、萌は本当に何もできなかった。

 

 声のかけ方も、目線の合わせ方も分からない。

 ただスマホを見て、立って、寒くなって帰った。

 でも2日目で、隣に立っていた年上の女が教えた。

 

「黙って立ってると地蔵っぽくなるから、少しだけ歩いた方がいいよ」

 

「へえ」

 

「あと、最初に金の話しないとだるい客いる」

 

「そんなすぐ聞くんですか」

 

「聞かないと持ってかれるだけ」

 

 持ってかれる。

 

 その言葉が妙に現実的だった。

 

 この辺で立っている女は、みんな何かを少しずつ失いながら立っている。

 

 時間。

 金。

 顔。

 身体。

 

 たぶん、その順番も人それぞれだった。

 

 今夜の萌は黒いダウンの下に、薄いニットワンピースを着ていた。

 

 寒いが、厚着しすぎると声がかからない。

 逆に露骨だと警察に目をつけられる。

 その中間を探るのも慣れだった。

 

 スマホが震えた。

 

 家賃保証会社からの自動メッセージ。

 

『お支払いの確認が取れておりません』

 

 確認が取れておりません、という言い方も腹が立つ、取れていないんじゃなくて払えていないだけだから。

 

 でも、ああいう文面はいつも、自分が少し行方不明みたいに書いてくる。

 

 萌は通知を消して、少しだけ背筋を伸ばした。

 

 通り過ぎる男が何人か見る。

 

 見るだけで行く男。

 1度通り過ぎてから戻ってくる男。

 スマホをいじりながら、視線だけよこす男。

 見分けはつくようになっていた。

 

 いちばん面倒なのは、酔っていて、自分を客だと思っていない男だった。

 

 買うというより、拾う感覚で来るやつ。

 そういうやつは値段を聞くと不機嫌になる。

 自分の都合だけが通ると思っているからだ。

 0時を過ぎた頃、40代くらいの男が立ち止まった。

 

 スーツ。

 ネクタイは緩んでいる。

 靴は少しだけ高そうだった。

 

「寒くない?」

 

 そういう入り方をする男は多い。

 気遣っている顔で始めるやつほど、あとが面倒なことも多い。

 

「まあ」

 

「このあとどうするの」

 

「条件次第」

 

 萌は最初から金額を言わなかった。

 相手に言わせた方が、その後に揉めにくい。

 男は少し笑った。

 

「いくら」

 

「ホテル別で2」

 

 男はすぐには返さなかった。

 顔だけで、少し高いと思っているのが分かる。

 

「高くない?」

 

「じゃあいいです」

 

 萌はすぐに切ろうとした。

 このへんで長引く会話はだいたい損だ。

 男は慌てて言った。

 

「待って、1.5で」

 

「無理」

 

「1.8」

 

 萌は少しだけ考えるふりをした。

 本当は、家賃の通知を見たあとだったから、もう少し弱かった。

 

 でも弱い顔をしたら、その夜は全部安くなる。

 

「じゃあ先払い」

 

「そこ信用ない?」

 

「最初はみんなない」

 

 男は少しだけ嫌そうな顔をしたが、結局財布を出した。

 こういう時、ちゃんと現金が出る男はまだ楽だ。

 

 問題はこのあとだった。

 

 ホテルへ向かう途中、男は仕事の話をした。

 

 営業だと言った。

 部下が使えない。

 家に帰ってもつまらない。

 妻とは冷めている。

 

 そういう話ばかりだった。

 

 萌は相槌を打った。

 聞いていないわけではない。

 

 でも、聞いたから何か変わるわけでもない。

 

 男は途中で聞いてきた。

 

「こういうの、長いの?」

 

「別に」

 

「昼は何してんの」

 

「いろいろ」

 

「彼氏いる?」

 

 そういう質問が始まると、客は少しずつ自分が特別だと思い始める。

 

 萌はそれが嫌だった。

 

 金を払っているだけの関係で、急に人間ぶってくる感じが。

 

「そういうの、関係あります?」

 

 少し冷たく言うと、男は笑ってごまかした。

 

「いや、なんとなく」

 

 ホテルの部屋は安っぽかった。

 

 壁が薄くて、廊下の音が少し聞こえる。

 

 こういう場所の方が、逆にまだ安全な気がする時がある。

 

 高いホテルに連れていく男の方が、自分の余裕を見せたがる分だけ面倒なことがある。

 

 終わるまで、男は想像していたより普通だった。

 普通、という言い方も変だが、少なくとも乱暴ではなかった。

 

 その代わり、帰る前に聞いた。

 

「また会える?」

 

 萌は服を直しながら答えた。

 

「また気が向いたら」

 

「番号交換しない?」

 

「そういうのやってない」

 

 男は少しだけ不満そうな顔をした。

 

「冷たいね」

 

 萌はそこで、少し笑いそうになった。

 さっきまで金で時間を買っていた男が、最後は冷たいかどうかを気にする。

 

 その順番が、いつも少しだけおかしかった。

 ホテルを出たあと、萌はコンビニで水を買った。

 トイレの鏡で、自分の顔を見る。

 メイクはほとんど落ちていない。

 でも目の奥だけが疲れている。

 スマホを見ると、さっきの男からメッセージが来ていた。

 

『今日はありがとう』

 

 どうやって連絡先をと思って少し驚いたが、ホテルへ向かう途中に一度だけ、男が「予約のため」と言ってアカウントを見せた時に、自分の表示名を拾ったのだとすぐ分かった。

 

 そういうところだけ、やけに手が早い。

 

 萌は返信しなかった。

 返すと、次の線ができる。

 線ができると、値段が崩れる。

 値段が崩れると、こっちがただの都合のいい女になる。

 

 それだけは避けたかった。

 

 深夜1時を過ぎると、通りの空気が少し荒れる。

 

 泥酔した男。

 3人組。

 冷やかし。

 警察の巡回。

 

 立ちんぼは、その時間から急に立つ意味が変わる、選ぶんじゃなく、選ばれる前にやめるかどうかになる。

 

 萌はもう1本いくか迷った。

 

 家賃を考えると、行けた方がいい。

 でも身体はだるい。

 足も冷たい。

 

 その時、道路の向こうで1人の女が警官に声をかけられていた。

 

 若い子だった。

 

 たぶん始めてまだ浅い。

 

 立ち方が固いし、逃げ方も下手だった。

 警官は何か言っている。

 女は笑ってごまかしている。

 その感じを見ているうちに、萌は急に疲れた。

 

 この街には、ちょうどよく壊れる方法が多すぎる。

 

 店に入る。

 パパ活をする。

 立つ。

 飛ぶ。

 

 どれも少しずつ違うだけで、最後はだいたい同じ場所へ向かう。

 

 萌のスマホがまた震えた。

 

 今度は母からだった。

 

『元気?』

 

 その2文字だけで、少し吐きそうになった。

 元気なわけがない。

 でも、元気じゃないと言ったところで、何か変わるとも思えない。

 

 萌はしばらく画面を見たあと、何も返さずに閉じた。

 

 代わりに、さっきの男からのメッセージもブロックした。

 

 意味があるかは分からない。

 でも、ああいう「また会える?」を残しておくと、自分の方が少しずつ安くなる気がした。

 2時前、萌はその日の最後のつもりでもう1人だけ相手を取った。

 

 若かった。

 25か26。

 最初から金額で揉めた。

 

「1でいいじゃん」

 

「無理」

 

「立ってるだけでしょ」

 

 その言い方に、萌は顔を上げた。

 立ってるだけ。

 そうだ。

 外から見ればそう見える。

 

 でも、その「立ってるだけ」の中に、いくつの通知と未払いと、見ないふりした感情が詰まっているかなんて、誰も知らない。

 

「じゃあ行かなくていいです」

 

 萌がそう言うと、男は舌打ちした。

 

「感じ悪」

 

「そうですね」

 

 萌はそれ以上話さず、道を渡ってコンビニの方へ歩いた。

 追っては来なかった。

 

 そのことに少しだけ安心して、少しだけ虚しくなった。

 結局その夜、萌は2本だけで帰った。

 

 足りるとは思えなかった。

 でも、足りないまま帰るしかない夜もある。

 始発近くの電車に乗って、窓に映る自分を見る。

 ダウンの襟に顔を埋めたまま、ただの疲れた若い女に見えた。

 

 それで少しだけほっとした。

 立っていたことも、値段を言ったことも、ホテルへ入ったことも、その顔だけでは分からないからだ。

 

 でも分からないまま、明日また家賃の通知は来る。

 

 分からないまま、身体だけが少しずつ覚えていく。

 

 立ちんぼは自由だと、最初は思っていた。

 

 でも今は違う。

 

 店に管理されていないだけで、金と夜にはちゃんと飼われているのだと、萌はもう知っていた。

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