1.エストレイアの事情
伯爵令嬢レジーナ=エストレイアは、一ヶ月後に迫った愛する婚約者との結婚を楽しみにしていた。
自ら一通一通丁寧に手書きした招待状はすべてのゲストに無事届き、当日着る純白のドレスは昨日最後の打ち合わせを終えたところだ。
琥珀色の瞳を輝かせ、来月に向けて念入りに手入れしているハニーブロンドの髪をそっと耳にかける。
今は彼の甘い微笑みを思い浮かべながら、幸せな気分で彼の胸に飾るポケットチーフに刺繍を施している。
「私、もうすぐレジーナ=ディモネスになるのね」
彼の姓に変わる自分の名前を口にして、その面映さに熱を帯びる頬を押さえた。
レジーナの婚約者のアルバートはディモネス伯爵家の長男で、銀髪に紫色の瞳の中性的な美しさを持つ人だ。穏やかな物腰から他の令嬢たちの人気も高く、夜会などではちょっと離れた隙に声をかけられ、レジーナ助けてとばかりに困った顔で見つめられたものだけれど。
それも来月の結婚式を終えれば、落ち着いていくに違いない。
ああ、幸せ。
窓の向こうの澄み渡る青空を見上げて夢見心地に浸っていると、それを打ち破る無機質なノックが響いた。
返事を返せば、神妙な顔をした侍女が感情を排した声で告げる。
「お嬢様、応接室で皆さまがお待ちです」
急いでお客様をお迎えできる装いに着替え応接室に向かうと、そこにはレジーナの父エストレイア伯爵、アルバート、アルバートの父ディモネス伯爵、そして、なぜかドルディ侯爵がいた。
粗相のないよう指先まで細心の注意を払ってカーテシーをすると、「かけたまえ」とドルディ侯爵から声がかかる。
レジーナは状況がわからないまま父の隣へ座り、ちらりとその顔を窺うけれど、父と目が合うことはなかった。
向かいに座るアルバートに視線を向けるも、一瞬目が合ったかと思えば気まずげにそらされてしまった。
上座に座るドルディ侯爵は、注目を集めるように咳払いを一つすると、徐に口を開いた。
「さて、必要な当事者も揃ったことだし、手続きを始めよう。我が立ち合いの元、エストレイア家とディモネス家の婚約を解消する。なお、婚約不履行による違約金その他の取り決めについては書面の通りとし、異論がなければ双方の当主はこれに署名するものとする」
有無を言わさない威厳のある声が静かな室内に響く。
レジーナは何を言われたのか理解できなかった。頭ではなく、心が。
だって、もう一ヶ月後には二人は結婚するのに。
そのはずだったのに。
準備だって、ほとんど終わっているのに。
両家の当主には事前に話が行っていたのだろう。どちらもざっと書類に目を走らせると、動揺も異議もなくさらさらとペンを走らせ署名している。
レジーナはアルバートを見た。
アルバートも遅れてレジーナを見た。
両家の署名を確認し、一つ頷くと、ドルディ侯爵は再び威厳ある声で言った。
「これをもって、婚約は解消された。アルバート君、レジーナ嬢、我々は他にも話すことあるから二人は少し散策してくるといい。ああ、もちろん、もう婚約者ではないのだから、節度ある距離感で頼むよ」
ハッハッハ、と全く笑っていない目で牽制しながら、ドルディ侯爵はレジーナたちを送り出した。父もディモネス伯爵も、最後まで一度もこちらを見なかった。
勝手知ったるエストレイア家の庭園を、肩を落としたアルバートが歩いていく。その五歩分くらい後ろを歩きながら、レジーナはアルバートの背をただ見つめた。
「アルバート…いえ、ディモネス伯爵令息?」
「…ッ、そんな呼び方…!!…いや、そうか…そう、だよな…ごめん」
弾かれたように振り返ったアルバートは、けれどレジーナの真っ青な顔を見て俯き、拳を握りしめた。
「…二ヶ月前、君が皆に招待状を出してくれただろう?それで、チェルシーに呼び出されたんだ…レジーナにサプライズをしたいから相談に乗ってくれないかって…」
チェルシー。チェルシー=ドルディ。最近アルバートに言い寄っていた女性の一人で、先ほど二人の婚約解消を宣言したドルディ侯爵の娘。
日傘を握る指先に、知らず力が入ってしまう。
「それで、紅茶を飲みながら僕らの式の話をして…いつの間にか紅茶がワインになって、気が付いたら彼女の部屋のベッドで…僕とチェルシーは…その…」
「やめてちょうだい」
「でもレジーナ、聞いてくれ!僕は今でも君を」
「聞きたくない!!」
引き攣った笑顔で手を伸ばそうとするアルバートに、自分でも驚くほど、鋭くて硬い声が出てしまって。二人きりにならぬよう遠巻きに控えていた侍女たちが近づこうとするのを、慌てて首を振って制した。
日傘を持ち直すふりをして自分の顔を隠し、零れそうになる涙を気合いで押しとどめると、レジーナは微笑んだ。
「ドルディ侯爵令嬢を呼び捨てされているのを聞くに、お二人の仲は良好なようですね」
「それはっ…事情はどうあれ高位貴族の、それも未婚のご令嬢に手を出したんだ…慰謝料も払える額ではなくて、差し出せる領地もない中で、僕がチェルシーと結婚するならお咎めなしだと言われたら…他に選択肢なんてない。責任を取って一生を共にするなら、良好な関係を築こうとするのは当然だろう?」
「ええ、ですからまさか他の女性、例えば元婚約者などを呼び捨てにして愛を乞うことなんてございませんわね?」
「…っ」
「ドルディ侯爵令嬢様と、どうぞお幸せに。ああ、申し訳ございませんけれど、結婚式は欠席でお願いいたしますわ。その日は外せない予定がございますの」
にこりと優雅に微笑んで踵を返すと、レジーナは振り返らないまま自室へと向かった。
どんな理由があろうと、レジーナを裏切ったアルバートがレジーナより傷ついた顔をしていいはずがない。
そう自分に言い聞かせなければ、傷ついた顔のアルバートを抱きしめて慰めてしまいそうなくらいには、まだレジーナは彼を愛していた。
自室に戻ると、刺繍を刺しかけのポケットチーフが目に入り、レジーナの琥珀の瞳から堰を切ったように涙が溢れた。
まだ屋敷内にいるかもしれない彼らに泣き声が聞こえぬよう唇を噛み、声を殺し、ただ涙だけを流し続けるレジーナに、温かい紅茶を持ってきた侍女は一度だけ動きを止めたけれど、何も言わずティーカップを置くと、静かに退室していった。
入れ替わるように入ってきた父エストレイア伯爵は、温かい紅茶を前に涙に暮れる娘に言った。
「あのような隙だらけで頼りない男と結婚しなくて済んだのだから、よかっただろう。そう泣く必要はない。それに、表向きには侯爵家の利益に供する形での三家合意による円満な婚約解消だ。ドルディ侯爵からの多額の慰謝料と、ディモネス伯爵との関税契約も婚約時より好条件で結べたのだ、我が家にとっても利があると言ってもいい」
レジーナは涙を流しながら首を傾げた。父は何を言っているのかと。
家としては結果的によかったのかもしれない。こちらを裏切った家と縁づかずに済んで、ドルディ侯爵に貸しも作れた。父の言う好条件の関税契約に多額の慰謝料は、その貸しをさっさと帳消しにしたいドルディ侯爵の思惑によるものだろう。
けれど、レジーナはどうなる。
愛した人には裏切られ、招待状を出していながら行われることのない結婚式。
良好に見えた二人の突然の破局と、アルバートとチェルシーの婚約の公表。
レジーナには何の非もないことを、レジーナの友人たちはわかってくれるだろう。
けれど、社交界はそうではない。どんなに表向きが円満であろうと、レジーナはこれから、結婚直前に婚約者に捨てられた惨めな女として針の筵の中を生きていかなければならない。
伯爵令嬢との結婚はそれなりに利があるので結婚できないということはないかもしれないが、幸せは望めないかもしれない。
これのどこに実質利があるのか。
いまだ枯れぬ涙とともに父に鋭い視線を送るが、父はどこ吹く風で白々しく咳払いをして、「ああ、もう一つ」と物のついでのような気軽さで、告げた。
「お前の次の婚約が決まった。隣のレンフィール伯爵家の長男、レックス君だ。我が家は少しでも円満な婚約解消に見せるため早く次を見つけたほうが良いし、あちらは…まあ、二度ほど婚約が破談していて、次の婚約者を探すのに苦労していてな。なに、次に婚約が破談になったら跡継ぎを弟に変更すると釘も刺してあるというし、今回のようなことにはなるまい」
…もう、次が決まっている?
涙を流す娘を慰めることもなく、心を癒す期間を与えることもなく、次。
しかも、相手はあのレックス=レンフィール?
たしかに今回の一件で条件が格段に悪くなった娘など、役に立つうちに使っておくに限るかもしれない。
しかし、おそらく事前に知っていたであろう父はともかく、レジーナはつい先ほど、幸せな未来が悪意により奪われ二度と戻らないと知らされたばかりだ。
呆然とする娘に、父はなおも追い打ちをかける。
「こちらは婚礼に必要なものもあらかた準備できているし、あちらの準備を待って、三ヶ月後には嫁ぐ予定になっている。急な話だから婚約の公表はせず、結婚後に公表を兼ねたパーティーを開催するらしい。まあ、そのせいで忙しくしておられるから、お前とは手紙でのやりとりのみになるだろうが、その間、社交に出る必要もないから、家でゆっくりしているといい」
言いたいことを言って満足したらしい父は、清々しい顔で部屋を後にした。
「…よりにもよって、他の女性に婚約者を奪われた娘の次の婚約者に、女性にだらしない男性を連れてくるなんて…」
領地が隣だからといって、親同士がよほど仲良くない限り、幼い子供同士が関わることなどほとんどない。
だから、レジーナはレックスを噂でしか知らないし、レックスもその他大勢でしかないレジーナをよく知らないだろう。
たしか、レックスは金髪青眼で彫刻のように美しく、多くの女性と浮名を流し二度も婚約が破談になりながらも、仕事で領地を空けがちな両親の代わりに行っている領地経営の手腕は確かで、それゆえどんなに問題を起こしていても跡継ぎでいられるとか。
夜会やパーティで遠巻きに見かけたことはあるはずだけれど、正直全く思い出せない。
なにより、あの頃は隣にいるアルバートだけを見ていれば、それでよかったから…
胸に広がる苦みに、両手をぐっと手を握り締めた。
たった三カ月後には、好きな男に嫁ぐために用意した婚礼衣装を着て、別の男に嫁ぐ。
窓から見上げた空は青く澄み渡っている。ほんの数時間前にはこの空を幸せな気持ちで見上げていたのに。
レジーナはしばらくそのまま微動だにしなかったけれど、やがてのろのろとすっかり冷めた紅茶に口をつけた。
視線をどこにやっても、アルバートとの思い出の品が目に入る。
「…この部屋も、整理しなければね」
侍女に箱を用意してもらい、刺繍を刺しかけのポケットチーフを入れた。
いままで大切にとっていた彼からの手紙の束。
「独占欲が強すぎるかな」なんて照れながら渡してくれた、銀とアメジストの髪飾り。
「君みたいでかわいかったから」と買ってくれた、琥珀色の瞳のぬいぐるみ。
彼にもらった花束で作った押し花のしおり、おすすめの本、今までもらったプレゼント、思い出の品々、少しでも彼を連想させるものはすべて箱に詰めていった。
最後に、「これで手紙を送り合おうね」とお揃いで買った万年筆で、いっぱいになった箱の表面に大きく「処分」と書くと、ペン先がねじ曲がったその万年筆も箱の中に放り込んだ。
ベルを鳴らしてメイドを呼び、部屋の清掃と湯浴みの支度を頼むと振り返らずに部屋を後にした。
食事と湯浴みを終えて部屋に戻るころには、空のティーカップも、「処分」と書いた箱も、きれいさっぱり消えていた。レジーナはだいぶ物のなくなった棚と机に視線をやり、ぽつりと小さく呟いた。
「さようなら、アルバート」
***
レジーナにだけ波乱の婚約解消から一週間後、レジーナの元に二通の手紙が届いた。
一通はチェルシーから。
長々と謝罪に見せかけた惚気が書き連ねられ、ぜひお会いしてお話ししたいわ、とお茶会に招待されていた。行っても行かなくても、ろくなことにならないのは目に見えている。
「…お父様は社交に出る必要もないと仰ったわ」
雑に封筒に戻すと、レジーナはその手紙を持ってきた侍女に返した。
「欠席のお返事をしておいて。定型文でいいわ」
「かしこまりました」
「ありがとう。もう一通は…あとでゆっくり読むから」
一礼して退室する侍女を視線で見送って、ほのかに甘い香りがする封筒に視線を落とす。
宛名、レジーナ=エストレイア様。
差出人、レックス=レンフィール。
あのレックス=レンフィールから、手紙。
差出人の名は、書き慣れているのがわかる美しく流れるような筆跡、表の宛名はスペルを間違えないようにしたのか、まだ書き慣れていないからなのか、一文字一文字を丁寧に、全体のバランスも美しく見えるよう配慮されたことが伝わる筆跡だった。
レジーナは、文字の丁寧さにつられるようにペーパーナイフを丁寧に動かして開封している自分に気づいて、少し複雑な気持ちになった。
中には三枚の便せんと、パステルイエローの布製のサシェ。
手触りの良い生地に琥珀色のリボンが巻かれたそれは、主張しすぎない優しいカモミールの香りがする。
同じ香りがする便せんには、季節の挨拶から始まり、せっかく婚約者になったのに直接の挨拶もままならないことへの謝罪、差し障りのない近況報告が綴られ、最後にこちらを気遣う言葉が読みやすく美しい字で並んでいた。
『優しい眠りが貴女を包んでくれることを願って』
サシェを贈る旨の最後に綴られた一文をそっとなぞる。
確かにリラックス効果のある香りといえばラベンダーかカモミールが定番だけれど、紫色を避けたのは気遣いからか、偶然か。
「…女性にはだらしないけれど仕事はできる…という噂は確かみたい。傷心の女性につけ込む術を身につけていらっしゃるのね」
ふわりと心に感じたくすぐったさを否定したくて、眉根を寄せ、できるだけ意地悪な言葉を選んで口にした。
普通の婚約者からであれば素直に喜べただろうけれど、相手はあのレックスなのだから。
礼儀としては返事を書くべきだろうと筆をとったはいいものの、何を書いても気に入らず、そもそも本当に返事が必要かしらと思い悩んで、結局レジーナはその日、何をするでもなく過ごした。
そうして、夜、横になったレジーナは枕元に置かれたサシェを見つめた。
目を閉じると、よりカモミールの香りに包まれるような気がする。
アルバートの傷ついた顔、あの日の応接室の光景、レックスの噂、チェルシーの手紙、頭の中を巡るあれこれのすべてが優しい香りの前に霧散していく。
カモミールの香りに包まれたこの夜が、この一週間の中で一番よく眠れたことだけは事実だった。
相手にどんな噂があろうと、社交辞令であろうと、礼儀には礼儀で返さなければならない。
すっきりと目覚めた翌朝、レックスに返事を書くことにしたレジーナは、執事に手配してもらって馴染みの商会からハンカチと刺繍糸を取り寄せた。
「金髪青眼とは言っても、色味が全然わからないわね…」
「僭越ながら、金色はこちら、青色はこちらの糸などいかがでしょうか」
「…ふふ、できる商人は察しが良くて助かるわ」
「差し出がましいことをいたしました」
婚約が公表されずとも、耳聡い商人はこちらの正確な情報を持っているらしい。彼女が勧めるならこれが一番レックスの色味に近いのだろうと、レジーナは手に取った刺繍糸を眺めた。
サシェの布より少し濃い金色の糸と、夏の青空のように鮮やかな青色の糸。
…これが新しい婚約者、レックスの色。
全然違うのね…。
口から出かかった言葉は、なんとか飲み込んだ。
誰かと比べたところで、意味なんてないのだから。
刺繍図案の本を眺めながら、新品のハンカチにレックスのイニシャルと飾りのモチーフを縫い付けていく。
無難な仕上がりだが、よく眠れたことへのただのお礼だから、それで十分だった。
サシェとともに置いてカモミールの香りをつけた便せんには、レックスが書いた内容をなぞるように返事を書いた。
季節の挨拶、サシェのお礼、自分からも会いに行けない事情と謝罪、そして少しだけ自分のこと。
『不本意ながら、よく眠れました。お心遣いありがとうございます』
書くか否かを最後まで迷った一文は、結局書いてしまった。感じが悪い自覚はあれど、レジーナが噂も何も知らないで喜んでいるとは思われたくなかった。
***
アルバートと結婚式を挙げるはずだった今日は、朝から雨が降っている。
どんよりと重たい空を見上げ、レジーナは溜息を吐いた。
手の中の小箱には、琥珀を中心に、小さなラピスラズリがあしらわれた繊細なデザインの髪飾りが入っている。レックスからの贈り物だ。
添えられた手紙の最後の一文に目を落とす。
『貴女の眠りが守られてよかった』とわずかに震える字で書いてある。明らかに、笑っている。
「書くんじゃなかったわ…」
羞恥に頭を抱えながら、小箱の中の髪飾りを睨む。
レジーナはハンカチの刺繍にレックスの色しか入れなかった。レックスはレジーナの色の髪飾りに、さりげなく自分の色を入れてきた。
手紙には、髪飾りのことは一切触れていなかった。あの一文と、ハンカチのお礼と、レジーナの部屋の内装やその他の希望を確認する旨だけ。ご丁寧に、何種類かの内装のデザイン案まで同封されている。
「そういえば、アルバートはそんなこと聞かなかったわね…」
新しく住むことになる部屋の内装も、庭に植えたい花も、初めての朝食に食べたいものも、何も聞かれなかった。
結婚式の希望だって、レジーナが何か言えば「そうなの?じゃあそうしようか」と笑ってくれた。けれど、アルバートからどうしたいかを聞かれたことも、言われたことも、一度もなかったことにレジーナは今初めて気がついた。
「私たち、お互いに相手を見ていなかったのかしら…」
未練とも後悔とも違う何かが胸に広がって、レジーナはサシェに手を伸ばした。だいぶ香りは薄くなってしまったけれど、顔を近づけるとまだ微かに優しい香りがする。
「新しい婚約者を気遣うのは…私と破談になったら、跡継ぎではいられなくなるのですものね」
贈り物も、誠実に見える言葉も、全部跡継ぎでいるため。結婚さえしてしまえば、またいくらでも遊び放題。だからたった三ヶ月なんだわ。
けれど、レックスとの婚約も破談になれば、アルバートとの婚約解消もレジーナに非があるように見えるのは間違いない。もはや、二人ともこのまま結婚するしかないのだ。
せめてもの抵抗として、レジーナは便せんに思いつく限りの要望を書き込むことにした。
『追伸:素敵な髪飾りをありがとうございます。ガラスケースに入れたところ、光が反射してとても美しく、すっかり気に入ってしまいましたわ』
聡い貴族なら、髪飾りをつける気はありませんと正しく伝わることだろう。
これを見たレックスは…また笑うのだろうか。
***
三ヶ月という月日はあっという間で、その間レックスからの手紙や贈り物は十回にも及んだ。
郵便に約一週間を要すると考えるとかなりの頻度だ。
レジーナがどんなに貴族らしい嫌味で返してもレックスの返事ははいつも楽しそうで、まるで普通に仲のいい婚約者同士の手紙のようで、レジーナはだんだんとレックスからの便りを心待ちにしている自分を認めたくなかった。
少し前、レジーナは父のエストレイア伯爵にレックスと会うべきか聞いてみたことがある。けれど、父は厳しい顔で首を横に振った。
「先方は忙しいと言っただろう。お前の相手をしている暇はない。旅の疲れとお前の支度もあるだろうから、あちらには式の二日前に着くよう打ち合わせてある」
父が会わせようとしないのか、レックスが会おうとしないのか、あるいはその両方なのかもレジーナにはわからないけれど。
ほんの僅かに会う時間さえ作らないのは、やはり家督のためにレジーナを利用しているからに違いない。
期待して傷つくのは自分なのだから、うっかり楽しいだなんて思ってはいけないのよ。
自分にそう言い聞かせ、レジーナはレックスからの手紙をすべて、保管用のレターボックスの奥底に沈めた。
レックスが手配したホテルで丸一日かけて旅の疲れを癒し、明日の式のためにメイドたちが全身を丹念に磨き上げてくれたその夜、レジーナは鏡に映る自分をぼんやりと見つめていた。
手の中のメッセージカードは昨日フロントで渡されたものだ。
『貴女に会えるのを心待ちにしています』と、レックスのあの美しい筆跡が並ぶ。
ここはレンフィールの邸宅からほど近いホテルだ。昨日も今日も、会おうと思えば会いにくる時間くらい取れただろうに…
「…嘘つき…いいえ、私が愚かなだけね」
アルバートに裏切られ、まんまと傷心につけこまれ、期待はしないと思いながら落ち込んでいる自分に嫌になる。鏡の中の自分は、以前よりもっと傷ついた顔をしている。
…明日は、いったいどんな顔で彼の隣に立てばいいのだろう。
翌日も空は美しく晴れ渡っていた。
レジーナは早朝から挙式を執り行う教会の控室に連れられ、侍女たちが何人もせわしなく動き回ってはレジーナを美しく飾っていく。
緊張と不安と、捨てきれない期待に落ち着かない心地のまま呼ばれるのを待っていると、ガタンと乱暴な音とともに扉が開いた。
「へえ、思ったより悪くねえな」
反射的に振り返ったレジーナの背が冷える。
輝く金の髪、晴れ渡る空のような青い瞳。
婚礼用の白い服に身を包み、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべる男が近づいてくる。
嫌だ、と思った。
期待してはいけないとわかっていたのに。
「さあ、行こうか。花嫁殿」
「痛っ…離して!私、自分で歩けますわ!」
「うるせえな、さっさと来い」
強引に手首を掴まれ、引きずられるように進む。レジーナの抵抗など意にも解せず、驚いた顔の使用人たちの横を早足で過ぎる。
これがレックスの正体…頭ではわかっていたつもりだった。
それでも、こちらを気遣うような手紙と贈り物が、笑っただろうときだけ少し震える美しい筆跡が、いま目の前で自分を物のように引きずっていく男とどうしても結びつかなくて。
腕の痛みと悔しさで、レジーナの瞳に涙がにじむ。
ステンドグラスが美しい教会の赤い絨毯の上を余韻もなく大股で進み、困惑する司祭様にもレックスは「式を始める、早くしろ」と乱暴に声をかける。
「誓いの言葉は省略だ、早く婚姻誓約書を出せ」
司祭様からひったくるようにペンを奪ったレックスは、右手で雑にサインをすると、レジーナの手首を掴んていた左手でレジーナを強く引き寄せる。
「お前もだ。サインが終わればキスくらいは優しくしてやるぜ?」
覗き込むように至近距離にあるきれいな顔を、レジーナは掴まれていない右手で精いっぱい引っ叩いた。
虚を突かれ緩んだ手を何とか振りほどき、震える足で後ずさる。
恐怖で思ったように動けない中、レジーナは必死に叫んだ。
「あ、貴方は誰…?本物のレックスはどこにいるの!?」
婚姻誓約書の署名欄には、確かにレックス=レンフィールと書かれていた。
でも、筆跡が、違った。
いくら雑に書いたとしても、文字の癖はそう変わらない。
目の前の男の筆跡は、文字の端々が鋭く尖っていた。
今まで届いた手紙のような、美しく流れる筆跡とは明らかに別人だった。
引っ叩かれた男は、額に手を当てて笑った。
「くく…っははははは!!馬鹿な女だ。お前の相手をしていたのは―」
「レジーナ様!!!」
不意に、後ろから切羽詰まった声が響く。
振り返る間もなくレジーナは後ろに体を引かれ、温かい何かに包まれる。
「ご無事ですか!?お怪我は?…っ、この腕は…ああ、怖い思いをさせてしまって、本当に申し訳ございません」
矢継ぎ早に問いながらレジーナの赤くなった手首を温かい手でそっと包み、瞳から零れる涙を痛ましげな顔で拭う、金髪青眼の、男。
「こちらを」そういって、見覚えのある刺繍のハンカチを差し出し、レジーナを背に庇うその人は。
「ラルフ、どうやってここに…!」
「兄上、もうおやめください。これ以上は立場だけでなく、貴方のお命も危うくしますよ」
「貴様ッ、兄に向って」
「…連れていけ」
ラルフと呼ばれた男の鋭く短い一言に、入り口で待機していたであろう騎士たちが、喚く男を拘束し連れていく。
レジーナは茫然と、ラルフは苦しげに眉を寄せて、その光景を見送った。
困り顔の司祭様にも丁重に謝罪したラルフは、侍従に指示して司祭様を控室へと送り出した。
静かな教会に二人きり。
レジーナは、見覚えのありすぎる刺繍のハンカチをぎゅっと握りしめて、ラルフを見つめた。
ラルフは感慨深げにレジーナを見つめ、「やっと、お会いできましたね」と泣きそうな顔で微笑むと、ゆっくりと片膝を付き真剣な顔で言った。
「…どんな謗りも受けます。貴女の婚約も貴女の望むとおりにいたします。貴女の名誉を傷つける真似はいたしません。ただ、できることなら少しだけ、私の話を聞いてはいただけないでしょうか」




