円相場
男がそのニュースを見たのは、通勤電車の中だった。
『円の実力、史上最低を更新』
車内の誰も驚かなかった。むしろ「まだ下がれるのか」という感心に近い空気が、吊り革のあたりで静かに揺れただけだった。液晶広告には〈外貨歓迎〉と表示されている。男は財布を開いた。紙幣は昨日より厚い。安心した。厚いということは多いということだ。価値は知らない。
会社に着くと、経理部が騒がしかった。
「更新!」
「何が」
「底値」
大型モニターの数字が滝のように流れている。社員たちはそれを眺めていたが、相場というより天気図を見る顔だった。
「今日の底はいくらだ」
「さっきのが底でした」
「今は?」
「さらに底です」
誰かが記念撮影を始めた。最低値更新の瞬間を保存するのが最近の社内の習慣だった。
昼休み、男は定食屋に入った。
「日替わりを」
「一万八千円です」
男は札束を出した。店主は受け取ると秤に乗せた。
「数えないんですか」
「量った方が早い」
針が止まる。
「少し多いですね。お釣りいります?」
「いいです」
どうせ誤差になる。
午後、社長が全社員を集めた。
「重要なお知らせだ。本日より給与を外貨基準表示にする」
小さなどよめきが起きた。
「ただし支給は従来通り円だ。だが安心しろ。表示上は高給取りだ」
社員たちはうなずいた。表示は現実より長持ちする。
夜、男はニュースを見た。
『政府は円のイメージ向上策を発表しました』
青空と音楽。
〈円は安心 円は安全 円は可能性〉
男は言った。
「可能性はあるな。下方向に」
翌朝、銀行から通知が届いた。
《残高が増加しました》
確かに桁が増えている。
次の行。
《購買力は前日比マイナス三五%》
男は通知を閉じた。最近は数字より但し書きの方が重要だった。
数日後、奇妙な現象が起きた。
外国人が銀行に列を作り始めたのだ。
「両替ですか」
「いいえ。素材を」
紙幣は軽く、丈夫で、加工しやすく、しかも安い。海外企業が資材として買い始めた。紙幣住宅が建ち、紙幣衣料が売られ、紙幣断熱材が特許を取った。
ニュースが伝えた。
『円の需要、世界的に増加』
政府は声明を出した。
『国際的信任の表れである』
男は笑った。信任がここまで物理的になった例を知らなかった。
会社には新部署ができた。「通貨加工課」である。社員たちは紙幣を裁断し、圧縮し、輸出用ブロックを作った。
帰りに定食屋へ寄る。
「今日は?」
「無料です。余ってるんで」
店主は段ボールを差し出した。札束が詰まっている。
「断熱材に最適ですよ」
男は受け取った。外へ出る。夜風が冷たい。試しに首に巻く。暖かい。確かに高性能だ。
そのとき空が光った。
男は見上げた。
看板だった。
巨大電光掲示板に速報が流れている。
《円 需要急増》
通行人たちが足を止める。
《海外企業 大量輸入》
ざわめき。
《用途 建材》
ざわめき。
《用途 衣料》
さらにざわめき。
《用途 高性能断熱紙》
男は首の札束に触れた。
画面は続く。
《紙幣一キログラム 国際素材市場で最高値》
「キログラム?」
誰かが言った。
その瞬間、通り中で財布が開いた。人々は札束を取り出し、重さを量り始める。
「三百グラムか」
「五百ある」
「軽いな俺」
男も量った。軽かった。
背後から声がした。
「買い取ります」
振り向くと、秤を持った男が立っている。
「本日の価格です」
ボードにはこう書かれていた。
《紙幣 重量買取》
「支払いは?」
男が聞く。
買い取り屋は微笑んだ。
「もちろん、価値のあるもので」
差し出されたのは、硬貨だった。
男は受け取った。
重かった。
しばらく眺めてから言った。
「重いですね」
買い取り屋は答えた。
「ええ」
そして静かに付け加えた。
「価値とは、本来そういうものです」




