第9話:老いなき女王の不遜な願い
バザールの朝は、昨夜の甘い熱狂を洗い流すような鋭い陽光と共に始まった。
宿屋『砂漠の休息亭』の周囲は、朝早くから尋常ではない熱気に包まれていた。窓の外を覗けば、昨夜の噂を聞きつけた人々が列をなし、今か今かと魔女の目覚めを待っている。
「エリカさん、おはよう!」
アリューが弾んだ声で部屋を訪ねてきた。昨夜までの卑屈な影はどこへやら、彼女の瞳には強い光が宿っている。
「おはようアリュー」
「外見た!?十人以上の人が、みんなエリカさん目当てだよ!」
「ごめんなさい、お店に迷惑かけちゃって」
「いいよ気にしなくて。お父さんも商売繁盛だって喜んでるし、食堂を自由に使っていいからさ!」
アリューの屈託のない笑顔を見て、私は安堵の息をついた。
けれど、朝の光に照らされた彼女の肌を見た瞬間、私はわずかな違和感に気づく。昨夜、魔力を込めたクレンジングで汚れは落とした。けれど、無防備なまま一晩を過ごした彼女の肌は、砂漠の過酷な乾燥にさらされ、微かに潤いを失い始めている。
「ありがとう。あ、そうそうこれ、セットで使って。昨夜、寝る前に調合したの」
私は鞄から、大きさの異なる三つのガラス小瓶を取り出した。
「なにこれ綺麗……」
アリューが不思議そうに小瓶を覗き込む。
「これは、お肌に命を吹き込むための三つの手順よ。まず、この透明な化粧水でお肌に水分を食べさせてあげて。砂漠の熱に焼かれた肌には、何よりまずお水が必要なの」
「お肌に、水を食べさせる……?」
そうよね、この世界じゃ水分を補うなんて発想、ないわよね……
きょとんとする彼女に、私は苦笑しながら続けた。
「でも、ただ水をやるだけじゃ砂漠の空気がすぐに奪い返していくわ。だから次に乳液で肌を整えて、最後にこの少し固めのクリームで蓋をするの。これが、あなたの肌を守る最後の盾になるから」
アリューは呆然としていた。前世の知識では当たり前の保湿の重要性も、この世界の人々にとっては未知の領域なのだ。
「そんなこと、考えたこともなかった。今まで、顔が突っ張るのは当たり前だと思ってた」
「当たり前じゃないわ。毎日ちゃんとお手入れしてあげて。昨日のメイクを落とした後、なんだか自分の顔を見るのが、少しだけ怖くなかったでしょう?」
アリューはハッとしたように目を見開き、それから愛おしそうに三つの小瓶を胸に抱いた。
「今朝、鏡を見たとき、私、自分のことが少しだけ好きになれた気がしたの。ありがとう、エリカさん!」
彼女の喜ぶ顔を背に、私は階下へ降りた。
アリューが提供してくれた食堂の椅子へ、押し寄せた客たちを一人ずつ招き入れる。客層は様々だ。商談を控えた女商人、晴れ舞台を待つ踊り子、そして昨夜のアリューの変貌を見て、自分も変わりたいと願った街の娘たち。
「銀貨二枚。これでお受けいただけますか?」
「私は三枚出すわ! 今夜のパーティーで、あの浮気者の夫を後悔させてやりたいの!」
カチリ、カチリ、と机に置かれる銀貨の硬い音。
私は一人一人の顔をじっと見つめ、魔法のパレットを広げる。
肌に疲れが見える者には、青く澄んだ鉱石の欠片を指先で微かに砕き、冷涼な魔法を乗せて馴染ませていく。華やかさを求める者には、光の魔法を反射して真珠のような輝きを放つ粉を。
魔法が肌に馴染み、彼女たちが新しい自分に出会うたびに、食堂には歓喜の声が上がった。支払われる銀貨や大銅貨が、私の腰に下げた革袋をずっしりと重くしていく。
王都で自分を殺していた時には想像もできなかった、自分の腕一本で稼ぎ出す価値の重み。それは、何よりも私を自由にしてくれる感触だった。
だが、その軽快な硬貨の音が、ある瞬間に重々しい馬車の音によってかき消された。
宿の入り口に、金細工の装飾を施された一際大きな馬車が止まったのだ。扉が開かれ、護衛と思しき屈強な男たちが、並んでいた客たちを無造作に左右へ跳ね除ける。
「エリカ、客だ。それも、とびきり面倒な奴だぞ」
カウンターで状況を見ていたエルドが、鋭い目つきで私の前に立った。
彼がこれほどまでに警戒心を剥き出しにするのは、街道で野盗に襲われた時以来だ。
開かれた道の中央を歩いてくるのは、扇で口元を隠した一人の女性。
彼女が放つ、肌を刺すような威圧感。それだけで、賑わっていた食堂は一瞬で氷点下まで凍りつき、並んでいた客たちは蜘蛛の子を散らすように去っていった。
この人、ただの貴族じゃない気がする。
私が思わず身構えたその時、背後にいたエルドが、私の耳元で低く呟いた。
「気をつけろ。あれはバザールの黒薔薇、マダム・カサンドラだ」
「カサンドラ……?」
「この街の社交界だけじゃねえ、物流の根っこまで握ってる女主人だ。へそを曲げりゃ、明日にはこの街からあんたの居場所が消えるぞ」
エルドの言葉に、私は息を呑んだ。そんな大物が、一体なぜ。
マダムは私の前で足を止めると、扇をゆっくりと畳んだ。
至近距離でその顔を見て、私は思わず言葉を失いそうになった。
……この人、なんて無茶なことを。
一見すれば、陶器のように滑らかな白い肌。けれど私の目には、それが分厚く塗り固められた白粉の壁であることは一目で分かった。
白粉のわずかな亀裂からは、時の流れに抗おうとして力尽きた深い皺が、幾重にも隠されているのが見て取れる。
それは美しさを引き出すためのメイクではない。
老いへの恐怖を無理やり埋め立て、自らを塗り潰そうとする、痛々しいほどの執着の跡だった。
「あなたが、傷を宝石に変えた魔女かしら」
低く、地を這うような重厚な声。
「……左様です。何か、私に御用でしょうか」
「単刀直入に言うわ。私を十年前の姿に戻しなさい。……いいえ、二十年前よ」
カサンドラは扇を閉じ、鋭い眼光で私を射抜いた。
彼女が求めているのは美ではなく、失われた時間そのもの。それは私に対する、もっとも傲慢で、もっとも切実な挑戦状だった。




