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第8話:砂漠の薔薇を咲かせましょう

 門をくぐった瞬間、世界に色が溢れ出した。


 砂漠の交易都市バザール。王都のあのお高く止まった静寂とは無縁の、暴力的なまでの喧騒と熱気だ。


見渡す限り広がる砂色の石造りの建物と、その間を埋め尽くす極彩色の天幕。商人たちの怒号のような呼び込みと、熱風に乗って運ばれる複雑な香辛料の匂いが、肺の奥まで焦がすように入り込んでくる。


「凄い……」


「だろ? ここは砂の中に金が埋まり、腕一本でのし上がれる街だ。あんたの腕がどれだけ通用するのかを試すには最高の場所だ」


 エルドは不敵に笑い、慣れた足取りで人混みを分けていく。


 私たちが今夜の宿として選んだのは、市場の端にある今にも砂に飲み込まれそうな宿屋『砂漠の休息亭』だった。扉の立て付けは悪く、看板は砂嵐に削られて文字も読めない。


「……いらっしゃい。悪いけど、今は食事は出してないよ。他を当たったほうがいいよ……」


 力なく応対したのは、宿の娘と思われる少女だった。


 彼女の顔立ちは、よく見れば整っている。けれど、砂漠の過酷な生活に押し潰され、肌は土色にくすみ、その瞳からは一切の光が失われていた。髪は手入れを放棄されたようにパサつき、纏っている服も砂埃でボロボロだ。


「……なに?」


「いえ、もったいないなって。もっとお肌とか、大切にした方がいいのにと思って」


「……どうせ、明日には砂にまみれて汚れるんだ。着飾ったって無駄だよ」


 自嘲気味に笑い、自分の顔を隠すように俯く彼女。その投げやりな仕草が、家を出る前の、人形だった私自身の影に重なった。


そんな顔で、自分の価値を決めつけないで……


 胸の奥で、小さな火が灯る。それは同情ではなく、かつての自分を否定したいという、意地に近い感情だった。


「エルドさん、少し時間をください」


「……わかった」


 私は彼女の前に歩み寄り、その瞳を真っ直ぐに見つめた。


「ねぇお嬢さん、私にお化粧させてもらえないかしら」


「私なんかに構っても無駄よ。こんな掃き溜めの宿に、客なんて来やしないわ……」


「無駄かもしれない。でも、無駄じゃないかもしれない。だから一度やらせて?」


「……好きにしなよ。あと、私の名前はアリューだから」


「私はエリカです。では、さっそく始めましょうか」


 私は鞄から使い慣れたメイク道具を取り出し、集中を高める。最初に取り出したのは、澄んだ海の色を閉じ込めたような、藍玉色をした鉱石の欠片だ。


 それを指先で微かに砕き、清涼感のある水の精油と混ぜ合わせる。魔力を通すと、鉱石から溢れ出した冷気がアリューの肌の内側に溜まった熱と疲労を急速に吸い取っていく。


毛穴が引き締まり、土色だった肌が、みるみるうちに本来の瑞々しい白さを取り戻す。


 次に私は、パレットの上で黄金の砂と真紅の顔料を練り合わせた。


 アリューの伏せがちな瞼に、魔力で発光を強めたゴールドを乗せる。それは砂漠に沈む夕日のように、見る角度によって輝きを変える。


 ただ塗るのではない。彼女の内に秘められた意志の強さが表に出るよう、魔力を定着させた筆で眉の角度を凛と引き上げた。


さらに、唇には吸い込まれるような深い真紅の紅を。


仕上げは、砂漠の熱に焼かれ、手入れを放棄されていた髪だ。


 私は指先に、ほんの少しだけ粘り気のある透明な樹液の香油を馴染ませた。そこに微弱な魔力を編み込み、彼女のパサついた髪の根元から毛先へと、指を櫛にして滑らせていく。


「……っ」


 アリューが小さく息を呑むのが分かった。私の指先から流れる魔力が、死んでいた髪のキューティクルを一つずつ呼び覚まし、瞬く間に滑らかな手触りへと変えていく。


土埃にまみれていたはずの髪は、今や一房ごとに意思を持っているかのように美しく波打っている。


「さあ、アリュー。手鏡を見て」


 おずおずと目を開けた彼女は、鏡の中に映る自分を見た瞬間、息を呑んだ。


 そこにいたのは、砂漠の埃にまみれた娘ではない。黄金の瞳を輝かせ、真紅の唇を不敵に吊り上げた、圧倒的なオーラを纏う砂漠の女神だった。


「これ……私……? 本当に……?」


 アリューの瞳に、初めて力強い光が灯る。彼女は勢いよく立ち上がると、厨房に向かって凛とした声を張り上げた。


「……お父さん!一番いい肉の準備をして!私が客を呼んでくるわ!」


 アリューは凛とした声を張り上げ、砂に削れた宿の扉を勢いよく開けて飛び出していった。


 はじめは、一人の商人が足を止めるのが窓越しに見えた。次に旅人が、そして着飾った富裕層までもが、砂漠の熱気に浮かされるように足を止める。


「おい……なんだ、あの美人は。こんな宿、前からあったか?」


「いや……」


「なぁ、昨日聞いた噂と似てないか?」


 開け放たれた宿の扉から、野次馬たちのざわめきが私の耳に届き始める。


「ああ、本当だ! 酒場で行商人が話していた魔女か!」


「そうだ! 街道の村で、火傷の跡を一夜にして輝く宝石に変えた魔女の話と同じだ!」


 心臓がドクリと跳ねた。


 リィナを救ったあの時の出来事が、もうこの大きな街まで届いている。行商人の足というのは、私が思っているよりもずっと速いらしい。


「おい、その魔女は中にいるのか!?」


「俺の妻も頼みたい! 金ならいくらでも払う!」


 かつて幽霊屋敷のようだった宿屋は、あっという間に客の笑い声と、私を呼ぶ怒号のような期待で溢れかえった。


 私は意を決し、押し寄せた客の中から、必死に訴えてきた商人の妻を椅子に招いた。


「では……瞬きを忘れないで」


 私は再びパレットを広げた。宿の片隅を急造の作業場に変え、彼女の肌質、骨格、そして内に秘めていた自信を色彩で引き出していく。魔法が肌に馴染むたび、商人の妻の顔には艶やかな輝きが戻り、表情が劇的に変わっていく。


 一段落したところで、上気した顔のアリューが私の元へ駆け寄ってきた。その手には、重そうなずっしりとした皮袋が握られている。


「エリカさん! 見てこれ……今日の売り上げの一部よ。エリカさんのおかげで、一月分の稼ぎをたった数時間で叩き出したわ!」


「ふふっ、私はお膳立てしただけよ。あんなにたくさんのお客様を連れてきたのは、アリュー、あなたの力だわ」


 私が微笑んで答えると、アリューは照れくさそうに、けれど誇らしげに目を細めた。そして、彼女が別の場所から取り出したもう一つの皮袋からは、金属特有の重厚な音がした。


「これ、今日のお礼の宿代一週間分。それと、エリカさんの技術への報酬よ。……受け取って、お願い。あなたがいなきゃ、私は今も暗い台所で泣いていたわ」


 差し出されたのは、彼女の感謝と、私という一人の魔法化粧師への敬意が詰まった重みだった。


「……わかりました。これは私の技術への正当な報酬としていただきます。私たちにも食事、いただけるかしら」


「任せて!うちで一番の料理を今すぐ運ばせるわ!」


 アリューが弾むような足取りで厨房へ向かうのを見送り、私はふう、と息をついた。カウンターの隅で、エルドが感心したように私を見つめていた。


「……とんでもねえな。村娘の時といい、化粧だけで一人の娘の魂まで叩き起こした上に、宿まで確保しやがった」


「エルドさん。化粧はね、自分を愛し、立ち上がるための武装なんです」


 満足げに微笑む私の頭を、エルドは乱暴に撫でた。その瞬間、彼の袖口から、あの気高い香りがした。砂漠の熱気にも、安宿の埃っぽさにも馴染まない、王都の最奥を知る者だけが纏うような、高貴な香り。


 私はふと沸いた違和感を誤魔化すように、運ばれてきたばかりの皿に視線を落とした。


 スパイスたっぷりの羊肉の串焼きと、黄金色のピラフを夢中で頬張る。口いっぱいに広がる刺激的な熱さは、王都の冷え切った食卓では決して得られなかった、熱く、確かな生命の味だった。


 その力強い味に背中を押されるようにして、私はもう一度、隣で酒を煽る彼の横顔を盗み見た。


 無造作に伸びた前髪の隙間から覗く、鋭くもどこか寂しげな瞳。ふとした瞬間の佇まいが、どうしてもこの煤けた宿の風景から浮いて見える。


エルドさん。あなた、本当に何者なの?


 私の魔法が世界を塗り替えるたびに、彼との距離も、この世界の裏側も、少しずつ露わになっていく。そんな予感を抱きながら、私は温かい食事を胃に収めた。


 砂漠の夜風が、熱気を孕んで吹き抜けていく。


 私の新しい人生は、今、この黄金の街で産声を上

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