第7話:名もなき村の薄紅
野盗の襲撃という災難から逃れ、私たちは街道沿いにある小さな農村に辿り着いた。
黄金色の麦穂が揺れるのどかな風景。今夜の宿を借りる代わりに、エルドは村の力仕事を、私は村長の家で夕食の手伝いをすることになったのだが――。
「おい、エリカ。その紫色の煙は何だ。毒でも盛る気か」
薪に火を焼べていたエルドが、地を這うような呆れ声を出す。
私は煤で汚れた頬を拭いもせず、必死に大鍋と格闘していた。
「失礼ですねっ、調合も料理も、比率を守って混ぜればいいのでしょう? こんなの簡単に……あ、熱いっ!? やだっ、急に膨らんできた、吹きこぼれそう!」
盛大に噴き出した不気味な赤紫色の泡に悲鳴を上げ、私はたまらずスプーンを放り出した。どうして。筆の上では完璧に制御できる混ぜるという行為が、鍋の中ではどうしてこうも混沌を極めるのか。
「……どいてろ。あんたはそっちで大人しく座ってろ」
見かねたエルドが、私の手からお玉をひったくるように取り上げる。彼は慣れた手付きで火加減を調整し、浮いた灰汁を丁寧に取り除いていく。私の生み出した魔界の産物は、彼の魔法のような手捌きによって、瞬く間に芳醇な香りを漂わせるまともなシチューへと修正されていった。
情けなくて俯いていると、背後から消え入りそうな声がした。村長の娘、リィナだ。彼女は先ほどから、私の手元を羨望と諦めが混ざったような目で見つめていた。
「あの……エリカさん。王都の女の人って、やっぱり……お花みたいに綺麗なんですよね」
リィナは、農作業で節くれ立った指先を隠すように握りしめていた。
「私の顔、土いじりで焼けて真っ黒だし……。鏡を見るたび、自分が嫌になるんです。隣村に嫁いだら、笑われるに決まってるわ。彼だって、本当はもっとマシな女を貰いたかったはずなのに……」
彼女が震える手で、重い前髪をそっと上げた。そこには、幼い頃の不慮の事故だという、赤紫に変色した大きな火傷の跡があった。
一生に一度でいいから、彼に綺麗だって思われたい。
その涙は、かつての私と同じ――自分を愛したいという、魂の切実な叫びだった。
私は料理のために握っていた包丁を置き、エプロンで手を拭った。懐にある、使い慣れた魔筆の冷たい感触を確かめる。
鍋の中身は作れなくても、彼女の絶望を塗り替えることなら、私にだって。
「リィナ。明日の朝、私に少しだけ時間をくれない?」
「えっ、あ、はい……わかりました」
その夜、私は村から借りたランプの灯りの下、ひとり作業に没頭した。
庭に咲く野ばらの花弁、道端で見つけた保湿効果のある薬草、そして私が大切に持っていた魔石の極微細な粉末。料理の時はあんなに震えていた指先が、調合の段階に入った途端、驚くほど精密に、そして優雅に動き出す。
火傷の跡をただ隠すのではない。その傷跡さえも美しさの一部として取り込むための、特別な顔料。
朝露が草木を濡らす頃、小さな小瓶の中には、真珠のような光沢を放つ薄紅色のクリームが完成していた。
翌朝。私はリィナを古い木椅子に座らせた。
「あの、エリカさん……お化粧して貰っても、この傷がある限り、私は……」
「大丈夫。あなたは、あなたとして一番美しくなればいいのよ」
私は筆を執り、魔力を指先に集中させる。
まずは、土埃で荒れた彼女の肌に、丁寧に精製したクリームを伸ばしていく。すると、彼女の肌が乾いた大地が雨を吸い込むように、潤いを取り戻していく。
そして、火傷の跡。
私はそこへ、昨晩練り上げた薄紅色の顔料を乗せた。魔力を介して色を定着させ、光の屈折率を書き換えていく。傷を消すのではなく、光を反射させる意匠へと変貌させる。
「最後に、髪を」
土埃を被っていた彼女の髪をほどき、柘植の櫛で一房ずつ梳いていく。
シュッ、シュッ、という心地よい音。魔力が髪の芯まで浸透し、夕陽のような柔らかな艶を取り戻していく。
「……さあ、見て。これが、本当のあなたよ」
手鏡を差し出すと、覗き込んだリィナが、目を見開いたまま固まった。
そこに映っていたのは、野に咲く百合のように瑞々しく、そして凛とした一人の美しい女性だった。
「これ……本当に私……? 嘘、傷が……傷が、透き通るみたいに光ってる……!」
リィナは震える足取りで家を飛び出した。
「お父さん! お母さん!」
外の井戸端で朝の作業をしていた村の人々が、一斉に振り返る。リィナの姿が朝日に照らされた瞬間、すべての音が止まった。
「……リィナ、なのか? お前、その顔……」
村長が手にした手桶を落とし、水が足元に散る。母親は口を覆って絶句し、やがて大粒の涙をこぼした。
「なんて綺麗なんだ。まるで花の精霊が降りてきたみたいだぞ!」
「あんなに酷かった火傷の跡が、まるで宝石の模様みたいじゃないか……!」
周囲の村人たちから上がるのは、これまで彼女を苦しめてきた拒絶や同情ではない。純粋な、魂からの感嘆だった。
「リィナ、お前……本当に、綺麗だ」
父のその言葉を浴びた瞬間、リィナの瞳から涙が溢れた。それは悲しみではなく、生まれて初めて自分を誇らしいと思えた、自己肯定という名の歓喜だった。
その喧騒を遠くに聞きながら、静かになった台所でエルドが私の前まで歩み寄ってきた。彼は、私の手を、魔法の余韻を射抜くような真剣な目で見つめていた。
「……驚いたな。あんた、料理はあんなに壊滅的なのに、こっちは本物なんだな」
「一言余計です。……でも、ありがとうございます。メイクは、その人の魂を塗り替えるものだと思っていますから」
「魂、か。あんたのその腕、隠しとくには惜しいな」
エルドは、私の手を、自分の大きな手で不器用に、けれど丁寧に握った
「バザールに行こう、エリカ。あそこなら、家柄も過去も関係ねえ。力のある奴が、自分の力で居場所を作る場所だ」
エルドの瞳に、初めて私という個人への深い敬意と、確信に満ちた熱が灯る。
「俺が、そこまであんたを届けてやる。……あんたのその色が、世界にどこまで届くのか、俺も見てみたくなった」
エルドの手から伝わる武骨な熱と、その奥に漂う、あの知性的で澄んだ香り。
ついさっきまでの達成感を塗り替えるほどに、彼から向けられた真っ直ぐな言葉が、私の鼓動を速くさせていた。
「はい……連れて行って、エルドさん。私の色が、誰かをこんなに笑顔にできるのなら。私、その先を、もっと見てみたいです」
目的地は交易都市、バザール。
私が家を捨てた、ただの令嬢ではなく、一人の化粧師として、初めて自分の存在意義を見出した朝だった。




