第6話:色彩の守護者
王都を離れるにつれ、街道の景色は荒々しさを増していった。
エルドとの旅が始まって二日。私の足は、彼が塗ってくれた薬のおかげで驚くほど軽快だった。
彼は不思議な男だ。
焚き火の扱いから野宿の作法まで、手慣れた風を装ってはいるが、時折見せる仕草に、隠しきれない品が漏れ出している。例えば、夜に硬いパンを食べる時でさえ、その背筋は驚くほど真っ直ぐで、ナイフを扱う指先には一切の迷いがない。
「……エルドさん、あなた。本当はどこかの騎士様か何かなのではありませんか?」
歩きながら問いかけると、エルドは苦笑いを浮かべて肩をすくめた。
「よしてくれ。俺はただの自由人だよ。あんたこそ、そんなに背筋を伸ばして歩いてたら疲れるだろうに。……ほら、そこ、根っこが出てる。気をつけろ」
彼が差し出した手を、私は自然に取っていた。
以前なら、男性の手を握るなんて考えられなかった。けれど、彼の温かくて少し無骨な手のひらは、私に不思議な安心感を与えてくれる。
エドガー侯爵の、あの触れられることさえ拒むような氷の手とは正反対の、命の拍動を感じる熱い手。
そんな穏やかな時間が、一瞬で切り裂かれた。
「ヒヒッ……運がいいぜ。こんなところで上等なカモに会えるとはな」
藪の中から、汚い身なりの男たちが四人、下卑た笑みを浮かべて現れた。
手にしているのは、錆びた剣と棍棒。街道を荒らす野盗だ。
「おい、そこの女。大人しく付いてくれば、命だけは助けてやるぜ」
男たちの視線が、値踏みするように私の身体と顔を舐める。
一瞬、背筋に冷たいものが走った。十六年間、アステリア伯爵家の温室で守られてきた私は、こうした直接的な暴力に直面したことがなかったのだ。
私は反射的に、胸元の鞄を強く抱え込んだ。その中には、私の魂とも言える化粧道具が入っている。これだけは、何があっても奪わせるわけにはいかない。
「下がってろ、エリカ」
エルドの声が、先ほどまでの穏やかさとは打って変わって、低く、鋭く響いた。
彼は私を背中に隠すようにして、一歩前へ出る。
「おいおい、兄ちゃん。一人で格好つけるつもりか? そっちの女を渡せば、あんたの命は――」
「黙れ」
その一言で、場の空気が凍りついた。
エルドから放たれたのは、圧倒的な強者の威圧感。ただの放浪者が持てるはずのない、人々を平伏させてきた者だけが持つ、重厚な覇気だ。
男たちが気圧されて動けなくなる中、三人が恐怖を紛らわすように叫んで同時に飛びかかってきた。
「おらぁッ!」
「エルドさん!」
私が悲鳴を上げた瞬間。
エルドは腰の古ぼけた剣を抜き放つことさえせず、鞘のままで一人の鳩尾を突き、鮮やかな身のこなしで次の一人の腕を無造作に捻り上げた。
さらに、背後から迫ったもう一人の顎を、振り返りざまの掌底で叩き上げる。
「……っ、がぁあ!」
「あがっ……!?」
瞬きをする間もなかった。
三人の野盗は、まともに抵抗すらできず、地べたを這い、無様に呻き声を上げている。
エルドは彼らを冷たく見下ろすと、最後に残ったリーダー格の男へと、ゆっくりと歩を進めた。
男は腰を抜かし、尻餅をついたまま後ずさる。
「ひ、ひぃっ……!」
エルドは冷徹な眼差しのまま、男の喉元に、鞘の先端をぴたりと突きつけた。
「……消えろ。二度と、俺の連れをその汚い口で語るな。次はないぞ」
それは、慈悲を排除した宣告だった。
男たちは悲鳴を上げながら、重傷の仲間を抱えるようにして、一目散に森の奥へと逃げ去っていった。
「……ふぅ。大丈夫か、エリカ」
エルドが振り返る。
そこには、先ほどの冷徹な剣士の面影はなく、いつもの、困ったように笑うエルドがいた。
けれど、私の心臓は、恐怖とは別の理由で、これまでにないほど激しく波打っていた。
「……あ、あの。凄かったです、今の。本当に、あっという間で……」
「まあ、少しばかり旅慣れてるだけさ。それより怪我はないか?変な奴らに見られて、嫌な思いをさせたな」
エルドは私の肩にそっと手を置き、覗き込んできた。
その瞳には、私のことを本気で心配する熱い光が宿っている。
自分だって刃を向けられていたはずなのに、彼はどこまでも私の心身を最優先に案じていた。
「私は大丈夫です。それより、あなたこそ、お怪我は……」
「俺は平気だ。掠ってもいねえよ。それにあんたの鞄、守れてよかったよ。大事なんだろ?」
彼は私の腕の中にある鞄を、ポンと優しく叩いた。
私という人間だけでなく、私が命懸けで守ろうとした意志を、彼は再び、当然のように守ってくれたのだ。
不意に、彼の袖口から漂った香りに気づく。
鉄の匂いと、森の香りと……それから、高価な香料ではないはずなのに、どこか落ち着いた、清潔感のある香り。
私の顔が、内側から燃え上がるように熱くなるのが分かった。
「どうかしたか? まだ顔が赤いぞ。……まさか、どこか打ったか?」
「な、なんでもありません!本当に、なんでもありませんから!」
私は慌てて顔を伏せ、早足で歩き出した。背後でエルドが「おい、危ないぞ、そっちは崖だ」と追いかけてくる声が聞こえる。
――だめ。今の顔だけは、絶対に見せられない。
魔力で赤く塗ったわけでもないのに。
今の私の頬は、きっと、かつての私が唇に引いたどの高級な紅よりも、鮮やかな色に染まっているに違いない。
魔法をかけて、世界を塗り替えるつもりだったけれど。
魔法をかける前に、私の心の方が、この不器用な守護者に塗り替えられてしまいそうだった。
夕暮れの街道、追いかけてくるエルドの足音を聴きながら、私は初めて、逃げ出したいほどの幸福な焦燥に身を震わせていた。




