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第5話:不器用な手のひら

 エルドが幕舎を出ていってから、私は一人、静寂の中にいた。

 毛布の柔らかな温もりと、外から聞こえる薪が爆ぜる音。そして、先ほどまで彼が座っていた場所から漂う、微かな野性味のある匂い。

 

 ……私は、生き延びたのだ。

 

 鞄の底から、震える手で手鏡を取り出す。鏡の中にいたのは、メイクで塗り固めたあの強気な女ではなかった。

 青白く、目の下に濃い隈を浮かべた、痩せこけた一人の娘。泥は丁寧に拭われているが、それがかえって私の無力さを際立たせているようで、胸の奥が冷たく沈んだ。

 

 あの時。雨の中で私を抱き上げたエルドは、今のこの、惨めな私を見ていた。

 

「……見られたくなかった」

 

 ぽつりと漏れた独白は、冷たい空気に溶けて消える。

 私は、自分が他人からの視線を恐れていることに、今さらながら気づかされた。

 これまでずっと、地味な女を演じることで自分を守っていた。それが嫌で、魂を色彩に変えて飛び出したはずなのに。

 

 演じることさえやめた、素の自分。

 それはあまりにも弱く、何の色も持たず、ただ震えているだけの空っぽな人間に見えた。

 

 そんな時だった。

 幕舎の垂れ幕が勢いよく跳ね上がり、冷たい外気と共にエルドが戻ってきた。

 

「お、起きたか。……顔色はマシになったみたいだが、まだ少し震えてるな」

 

 エルドは私の返事も待たず、迷いのない足取りで近づいてくると、私の前に膝をついた。

 

「……な、何ですか?」

 

「失礼」

 

 短い一言と共に、彼の手が私の額に伸びる。

 ごつごつとした、剣筋や旅の苦労を感じさせる大きな手。それが私の額に、吸い付くようにピタリと当てられた。

 

 ――熱い。

 

 心臓がドクリと跳ねた。

 男性に、これほど無防備に触れられたのは人生で初めてだった。

 グレイモント侯爵家のエドガーだって、私の髪一本に触れるのさえ汚らわしいと言わんばかりに、手袋越しでなければ触れようとしなかったのに。

 

「……っ、離して。大丈夫です」

 

「動くな。……よし、熱は引いてきたな。あんた、魔力が高いから回復も早いんだろうが、無理は禁物だ」

 

 エルドは事も無げに手を離すと、今度は私の足元に視線を落とした。

 

「足、見せてみろ」

 

「は……? 何を仰って……っ」

 

「マメが潰れて、酷いことになってるだろ。さっき寝ている間に手当しようと思ったんだが、さすがに悪いと思ってな。ほら、出しな。薬を塗ってやる」

 

 彼は旅鞄から小さな薬瓶を取り出した。

 私は困惑し、汚れたスカートの裾をぎゅっと握りしめる。

 

「大丈夫です。自分でできます。そこまでしていただくわけには……」

 

「指がまだ震えてるじゃないか。いいから任せろ。……それとも、男に触られるのがそんなに嫌か?」

 

 エルドがふと、翡翠色の瞳で私を真っ直ぐに見つめた。

 その瞳には、下卑た欲も、私を試すような光もない。ただ純粋に、目の前の怪我人を放っておけないという、ぶっきらぼうな善意だけがあった。

 

 ……私は、観念して足を差し出した。

 彼の手が、私の足首をそっと支える。

 

 冷え切った私の肌に、彼の指先の熱が伝わってくる。

 丁寧に、優しく薬が塗り込まれていくたびに、張り詰めていた私の心まで解かされていくような錯覚に陥った。

 

 エドガーは、私を便利な魔力源として見ていた。

 父は、私を高く売れる商品として見ていた。

 

 けれど、このエルドという男は。

 私の家柄も、魔力も、そして私が命懸けで塗り固めていた美貌さえも剥ぎ取った後の、ただの私を、大切に扱っている。

 

「……ねえ、エルドさん」

 

「ん?」

 

「どうして、こんな……行き倒れの私に、ここまでしてくださるのですか?私には、あなたに返せるようなものは、もう何一つありません。……家も、名誉も、全て捨ててきたので」

 

 エルドは薬の蓋を閉めると、私の顔を見上げて、短く笑った。

 

「返してほしいから助けたわけじゃないさ。……ただ、あんたが泥だらけの顔で、それでも何かを必死に守るように鞄を抱えて倒れてるのを見て、少しだけ見上げたもんだと思っただけだよ。……その鞄の中身、あんたにとっての命なんだろ?」

 

「……ええ。そうです」

 

「なら、それをまた使えるようになるまで、俺が面倒を見てやる。あんたの魔法、見せてくれよ。次は泥に汚れてない、あんたが最高にカッコいいと思える姿でさ」

 

 彼はそう言うと、気恥ずかしさを誤魔化すように鼻を鳴らし、そそくさと立ち上がって夕飯の支度に戻っていった。

 

 残された私の頭には、彼が去り際、乱暴に撫でていった手のひらの温もりが、いつまでも消えずに残っている。

 私は膝を抱え、熱を帯びた顔を隠すように深く埋めた。

 ……困るのだ。

 あんな風に、当然のように中身の私を肯定されては。

 

 エドガーの前で見せたあの武装(メイク)こそが、私のすべてだと信じていた。

 けれど、泥にまみれ、色も落ち、情けなく行き倒れた私を見て、彼は歩いてきた証拠だと言ってのけた。

 その言葉が、あんなに大切に守っていたはずの私のプライドを、もっと高い、見たこともない場所へと連れ去っていく。

 

「……何を期待しているのかしら、私」

 

 私は、鞄の中の化粧道具をそっとなぞった。

 鏡の中の自分は、まだ青白くて、情けない顔のままだ。

 けれど、不思議と筆を握る指先には、力が戻っていた。

 

「……ええ。驚かせてあげます、エルドさん」

 

 私は、彼に聞こえないほどの小さな声で、けれど確かな意志を込めて呟く。

 

「次に描く時は……これ以上ないくらい、素敵な私になりますから。……その時に見惚れてしまっても、知りませんよ? ……ふふっ、なんてね」

 

 少しだけ自分の台詞に照れ笑いが漏れる。

 令嬢としては、はしたない独白。自嘲気味な、けれど心地よい敗北感。

 

 幕舎の外、雨上がりの夜空には、洗いたての星が輝き始めている。

 旅路の先が、今まで知っていたどの景色よりも、鮮やかな色彩に染まって見えた。

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