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第4話:泥を拭った後の、見知らぬ天井

 鼻をくすぐる、薪が爆ぜる匂い。

 それから、鉄の鍋で何かがコトコトと煮える、柔らかな音。

 重い瞼を押し上げると、そこには見知らぬ革張りの天井があった。


 私は、自分が清潔で温かな毛布に包まれていることに気づく。指先を動かそうとすると、あの痺れるような冷たさは消え、代わりに微かな痺れを伴う熱が戻っていた。


「……気がついたか」


 横からかけられた声に、私は弾かれたように顔を向けた。

 そこには、焚き火の傍らで木彫りの細工を弄んでいる男がいた。


 昨夜の雨の中、泥にまみれた私を拾い上げたあの男だ。改めて見ると、整ってはいるが、どこか気負いのない、風のような自由さを纏った顔立ちをしている。


「……ここは」


「……俺の移動用幕舎だ。あんた、あのまま放っておいたら今頃は森の土になってたぞ」


 彼は立ち上がり、手際よく木皿にスープを注いで私の前に差し出した。

 湯気と共に立ち上る、肉と野菜の芳醇な香り。それだけで、私の空っぽの胃がキュウと鳴り、喉の奥が震えた。


「……ありがとうございます、ええと……」


「エルドだ。呼び捨てで構わない」


 彼は適当な偽名を名乗ったのかもしれない。けれど、今の私には彼を疑う理由も、あるいは礼儀を尽くすための気力も残っていなかった。私は震える手で皿を受け取り、スープを一口、口に含んだ。


「……っ」


 熱い液体が喉を通り、五臓六腑に染み渡っていく。

 生きている。その実感が、熱い塊となって目元にこみ上げてきた。

 かつて伯爵邸で口にしていた、どんな高級なコンソメよりも、この素朴なスープは残酷なほどに美味しかった。


「……あんた、名前は?」


 エルドが焚き火に薪をくべながら、何気なく問いかけてきた。

 私は一瞬、躊躇した。

 アステリアの名を出すべきか。……いいえ、あの家はもう捨てたのだ。今の私は、ただの行き倒れでしかない。


「……エリカ。ただのエリカ、です」


「そうか。……いい名前だな」


 エルドはそれ以上、深くは追求しなかった。私の破れたドレスの質が、ただの町娘のものではないことなど、とっくに気づいているはずなのに。彼はただ、私の食が進むのを黙って待っていてくれた。


 ふと、私は自分の顔に触れた。……滑らかだ。泥も、そしてあの夜、決死の覚悟で塗り固めた武装(メイク)も、綺麗に拭い去られている。


「顔……あなたが、拭いてくださったのですか?」


「ああ。……あんなに真っ黒な涙を流して歩く奴は初めて見たが、何か特別な理由でもあったのか?」


 彼は悪戯っぽく笑った。その瞳に、軽蔑や好奇の光はない。

 私は思わず、膝を抱えて顔を伏せた。


「……あれは、魔法だったのです。私を強く見せるための、たった一つの魔法」


「魔法、ね。……確かに、あんたの顔についてたあの紅や墨からは、不思議な熱量を感じたよ。あれだけの意思を顔に乗せて歩くのは、相当な覚悟がいるはずだ」


 私は驚いて顔を上げた。

 エドガーも、父も、私を一人の人間としてではなく、ただの便利な物としてしか見ていなかった。あの夜のメイクも、表面的な異様さだけを見て、その奥にある私の叫びに気づこうともしなかった。


 けれど、目の前のこの男は、それを私の「意思」だと、真っ先に認めたのだ。


「……今の私は、その魔法さえ失った、ただの無力な女です」


「そうかな。……俺には、泥を拭った後のあんたの顔も、悪くないように見えるが」


 エルドは立ち上がり、幕舎の入り口の布を跳ね上げた。そこには、雨上がりの澄んだ空が広がっていた。


「ま、あんたが本当にやりたいことが何なのか、腹が膨れたらゆっくり考えればいいさ」


 彼はそう言い残すと、食料の調達にでも行くのか、軽やかな足取りで外へ出ていった。一人残された幕舎の中で、私は自分の手を見つめた。泥は落ち、爪の間に詰まった汚れさえ、丁寧に拭き取られている。

 

 ――負けたままでは、終われない。


 腹の底から、小さな、けれど消えない火が灯るのを感じた。

 この男に救われたこの命で、私はもう一度、自分を塗り替えてみせる。


 今度は誰かを威嚇するためではなく、私が私として、この広い世界で生きていくために。

 私は鞄の底に眠る、たった一つの紅のパレットを、強く握りしめた。

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