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第3話:色彩が溶けても、消えないもの

 自由の代償は、驚くほど重く、そして冷たかった。


 王都を離れ、ひたすら街道を歩き続けて三日。

 屋敷を飛び出した時のあの燃えるような高揚感は、今や足の裏の鈍い痛みと、絶え間ない空腹に塗りつぶされていた。


 私は、自分が思っていた以上に令嬢だったのだ。

 魔力はあっても、それを使って火を熾す方法も、獲物を捕らえる方法も知らない。鞄に詰めたのは、生きるための金貨ではなく、自分を飾るための紅と筆。

 

 ガチガチと、勝手に奥歯が鳴る。

 内臓が縮み上がるような空腹は、もはや痛みを超えて、腹の底を鋭いナイフで掻き回されているような感覚に変わっていた。

 追い打ちをかけるように降り出した雨が、容赦なく私の体温を奪っていく。

 

「……っ、あ……」

 

 指先の感覚は、とうに失われていた。

 寒さで強張った指は、まるで自分のものではない木の枝が刺さっているかのように感覚がなく、曲げることすらままならない。

 ドレスの裾を掴むことさえできず、ただ泥の中を引きずって歩く。あんなに自信をくれたメイクも、今では雨に打たれ、醜く顔の上で溶け出していた。

 

 ふと、道端の大きな水溜まりが目に留まった。

 覗き込んだそこに映った姿は、アイラインは黒い涙のように頬を伝い、紅は滲んで口元を汚している。

 泥にまみれ、髪は張り付き、纏ったドレスは汚れてボロボロになった、もはやただの行き倒れの浮浪者。

 

「……みっともないわね、本当に」

 

 自嘲気味に呟いた。けれど、ひび割れた唇から流れたのは、言葉というよりは、掠れた吐息だった。

 エドガーの前に堂々と立ちふさがったあの時の私は、どこへ行ったのか。

 結局、私は一人では何もできない、ただの無力な人間に過ぎないのか。

 

 視界がチカチカと明滅し、焦点が合わなくなる。

 冷たい雨が、不思議と熱く感じ始めたとき、私の膝はついに地面を叩いた。

 崩れ落ちる視界。泥の匂い。

 

 ああ。

こんなところで、私は終わるの?

 最後に、もう一度だけでいいから……。

 誰のためでもない、自分のために、綺麗な色を乗せたかったな。

 

 重い瞼を閉じようとした、その時だった。

 

 雨音が、止まった。

 正確には、私の頭上を覆う何かが、雨を遮ったのだ。

 

「おい、大丈夫か」

 

 低く、けれど温かみのある声。

 顔を上げようとしたが、力が入らない。ただ、視界の端に、泥に汚れた革靴と、旅慣れた風合のマントが見えた。

 

「……ひどい雨だ。こんなところで寝ていたら、本当に死んでしまうぞ」

 

 男は私の前に膝をつき、覗き込んできた。

 私の顔は、今、目も当てられないほどぐちゃぐちゃなはずだ。

 貴族が見れば眉をひそめ、平民が見れば不気味がって逃げ出すような、惨めな顔。

 

 けれど。

 その男の翡翠色の瞳に、嫌悪の色はなかった。

 

「……あ……」

 

「喋らなくていい。かなり熱があるな。……とりあえず、近くに俺の幕舎がある。そこまで運ぶぞ」

 

 彼は迷うことなく、泥まみれの私を抱き上げた。

 その瞬間、彼の腕から伝わる体温の熱さに、私は小さく呻いた。凍りついた身体が、急激な熱に触れて痛みを訴えている。

 

「……私の、顔……」

 

 意識が消える寸前、私は絞り出すように呟いた。

 せめて、この汚れを拭ってから出会いたかった。

 

「ん? ああ。……まあ、今は少し派手なことになってるが。……気にするな。あんたが必死にここまで歩いてきた証拠だろ」

 

「……っ……」

 

「よし、しっかり捕まってろ。すぐ温かいスープを飲ませてやる」

 

 男は困ったように笑い、そのまま軽々と歩き出した。

 

 ああ。

 この人は、私の顔を見ていない。

 

 家柄も、魔力も、美しさも、醜さも。

 私を、ただ一人の人間として、拾い上げてくれた。

 

 私は彼に身を預け、深い闇の中へと落ちていった。

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