第18話:砂漠に咲く、私の城
翌朝。
砂漠の街に差し込む朝陽は、昨日までの刺すような鋭さを失い、今日だけは世界を祝福するかのように柔らかな金色を帯びていた。
私はエルドに言われた通り、予定をすべて空けていた。
昨夜、迎賓館から戻ってからというもの、私の心は振り子のように揺れ動いていた。ニーナ様の閉ざされた心を救いきれなかった悔しさと、セドリック侯爵から突きつけられた商品価値という言葉の冷たさ。
国家という巨大なパレットの前では、個人の感情など一滴の絵具に過ぎない。
そう断じたセドリック侯爵の言葉は、かつて王都を追われた私の傷口を正確に抉っていた。けれど、それらすべてを塗りつぶすように思い出されるのは、エルドが私の手を引き、「あんたはよくやった」と言ってくれたあの熱い感触だ。
宿のロビーで待っていると、階段を一段ずつ踏みしめる音が聞こえてきた。
現れたエルドの姿に、私は思わず息を呑んだ。
いつもの護衛としての無骨な黒い革鎧ではない。少しだけ仕立てのいい、落ち着いた濃紺の簡素な服を纏っている。ベルトの締め方、歩くたびに僅かに揺れる肩のライン。
ふとした瞬間の背筋の伸び方や、迷いのない足運び。
出会った時から感じていた、ただの流れ者や用心棒とは一線を画す、どこか高潔な気配。
それは、彼がただの腕の立つ流れ者ではないことを改めて示唆しているようで、私は時折、彼が手の届かない遠い世界の人間に見えてしまうことがあった。
昨夜、高慢なセドリック侯爵を前にしても微塵も引かなかったあの圧倒的な威圧感は、泥にまみれて戦ってきただけの傭兵が持てるものではない。
そんな私たちの様子を、カウンターの奥でアリューが、大きな瞳でじっと見つめていた。
「エルドさん、なんだか今日いつもと雰囲気違うね。……もしかしてデート?」
「うるせえ。余計なこと言ってねえで、溜まってる洗い物でも片付けてろ」
アリューの茶化しに、エルドは眉根を寄せて短く応える。口を開けばいつもと同じぶっきらぼうな彼だが、耳の付け根が僅かに赤くなっているのを、私は見逃さなかった。
「……エリカ、行くぞ」
エルドは言って、私の手をそっと取った。
昨夜の、あの奪い去るような乱暴な引き寄せ方ではない。まるで、壊れやすい高価なガラス細工を扱うような、慈しみに満ちた手のひらの熱。けれど、そこには迷いを感じさせない、確かな決意が宿っていた。
街の中心部、商人たちがひしめき合うメイン通りを抜け、私たちは入り組んだ路地へと入っていく。
喧騒が遠ざかり、砂塵の代わりに蔦の緑や古い石造りの質感が際立つ、バザールの中でも一際落ち着いた一角。
エルドが、一軒の建物の前で足を止めた。
壁には美しい蔦が這い、日差しを浴びて青々と輝いている。二階建ての、こじんまりとした、けれど重厚な石造りの家。
「……ここだ」
エルドが懐から取り出したのは、一本の真新しい真鍮の鍵だった。まだ誰の指紋もついていない、黄金色に輝く鍵。
「これって……?」
「あんたの店だ、エリカ」
驚きのあまり、声が出なかった。
彼はいつの間に、こんな準備を。
呆然とする私をよそに、エルドは不慣れな手つきで鍵を差し込み、ゆっくりと扉を押し広げた。
扉の向こう側に広がっていたのは、驚くほど澄んだ光に満ちた空間だった。
中はまだ家具一つない空っぽの状態だったけれど、壁は私の筆や色鮮やかな顔料が最も美しく映えそうな、落ち着いたアイボリーに塗られている。
奥へと歩を進めると、そこには大きな窓があった。
将来、作業台が置かれるであろう場所からは、活気あふれるバザールの家並みと、その向こう側に広がる永遠のような砂丘が一望できた。
「今の俺は、あんな侯爵みたいに豪華な迎賓館や、王都風の壮麗な工房は用意できねえ。けど、ここはエリカ、あんただけの場所だ。誰に命令されることも、誰かの道具にされることもねえ。あんたが、あんたの色を描くための城だ」
エルドは、照れ隠しのように窓の外を眺めながら続けた。
その横顔には、一瞬、放浪者とは思えないほど凛々しく、どこか神聖なまでの決意が滲んでいた。
まるでこの小さな店一軒を贈ることが、彼にとって生涯をかけた、何よりも重い誓いであるかのように。
昨夜、彼が叩き落としたのはセドリック侯爵の手だけではない。私を商品にしようとする、王都の古い論理そのものだったのだ。
「……俺は、ここで、あんたが笑って筆を動かしてるのを見ていたい。それだけだ」
胸の奥が、熱い何かでいっぱいになった。
昨夜、ニーナ様の心を溶かせなかった自分の無力感。セドリック侯爵に商品と呼ばれ、政治の道具として値踏みされた屈辱。それら全てが、この真っ白な空間と、彼の不器用な言葉によって一気に洗い流されていく。
王都から逃げ出し、すべてを失った私に彼は居場所をくれた。
金箔で飾られた檻ではなく、自由な風が吹き抜ける、私だけの城。
「エルドさん。私……こんなに幸せで、いいのでしょうか」
私が歩み寄り、まだ木の香りが残る店内で彼の広い胸に顔を寄せると、エルドは一瞬狼狽えたように肩を揺らした。けれど、すぐに昨夜よりもずっと優しく、私をその大きな腕で力強く包み込んでくれた。
鎧越しではない、布一枚を隔てた彼の身体の熱と、トク、トクと一定のリズムを刻む力強い鼓動が、私の頬に直接伝わってくる。
「……当たり前だろ。あんたは、そのために戦ってきたんだからな。あんたはここで生きりゃいいんだ」
昨日の失敗すらも、彼の手の中では次への糧として、ありのまま許される。
私は彼の胸の中で、ようやく本当の息を吐くことができた。
私たちは新しい店の真ん中で、しばらくの間、静かにその幸福を噛み締めていた。窓から入り込む砂漠の風が、心地よく頬を撫でる。
この安らぎが、いつまでも続くものだと信じていた。
誰の手も届かない場所で、二人で歩んでいけると。
けれど、窓の外。
賑わうバザールの群衆の中に、明らかに周囲とは異質な装束――王都の隠密が纏うような、無機質な灰色の外套を羽織った男たちの影が、音もなく紛れていることに。
そしてその視線が、幸せの中にいる私たちの背中に、冷酷に注がれていることに。
私は、まだ気づいていなかった。




