第17話:色彩の揺らぎと、猛毒の価値
迎賓館の一室は、外のバザールの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
豪奢なルビーのシャンデリアが天井で鈍く光り、部屋の四隅には微動だにしない護衛たちが配置されている。その中心で、ニーナ様は人形のように座り込んでいた。
「……お話?私に、話すことなんて……」
消え入りそうな、拒絶の響き。言葉で彼女の心を引き出すには、積み重ねられた絶望が深すぎる。
「わかりました……無理にとは言いません。でも、ニーナ様。私に、あなたの髪に触れることだけ、お許しいただけませんか?」
私が静かに問いかけると、少女が微かに頷いた。
私は、自分の指先が僅かに震えているのを自覚した。それは、これから一人の魂を再構築しようとする、どこか正体のしれない冷たさへの予感だった。
背後からは、セドリック侯爵の鋭く品定めするような視線が刺さっている。斜め後ろには、エルドが無言で、けれど圧倒的な威圧感を持って控えていた。
「……エリカ様。あなたは、私にどんな仮面を塗ってくださるの……?お兄様が望むような、さらに完璧で、動かないお人形にしてくださる……?」
その問いに、私は明確に首を振った。
「いいえ、ニーナ様。私が施すのは仮面ではありません。あなたが、あなた自身を戦い抜くための武装です」
私はパレットを広げた。選んだのは、琥珀色に血のような深みと赤みを加えて調色した顔料だ。
「ニーナ様、目を閉じて。そしてあなたが今まで押し殺してきた怒りを思い出してください。抗う心こそが、最も気高く、美しい色を放つのです」
私は筆を走らせた。彼女の目尻に、鋭く、斬りつけるようなラインを引く。筆が肌の上を滑るたび、私は彼女の内側を探った。
だが、手応えが……薄い。
筆を通じても、彼女の魂に触れる感触がない。まるで底のない深い沼に、色彩を投げ捨てているような感覚。
それから一時間。
最後に一滴の深紅を彼女の唇に乗せた。だが、鏡を見たニーナ様の反応は、これまでの依頼人たちとは明らかに違っていた。
「……綺麗。ええ、確かに綺麗だわ。……でも、やっぱりこれは私じゃない」
ニーナ様の瞳に宿ったのは、一瞬の、本当に微かな火花。それは彼女の心を揺さぶることには成功したが、氷を溶かし、立ち上がらせるまでには至らなかった。彼女は再び、虚ろな微笑みを浮かべてベールを下ろしてしまった。
「……セドリック閣下。……申し訳ありません。今の私では、ニーナ様の心を解くことはできませんでした」
初めての挫折。自嘲気味に告げた私に、セドリックがゆったりと歩み寄る。
「……いや。王都の名だたる医者たちは、彼女の顔を見ることさえ拒絶された。一瞬でも彼女の心に色を映したその腕、やはり私の見込んだ通りだ」
セドリックは至近距離で私の顔を覗き込んだ。
「エリカ様。あなたは単なる化粧師ではない。人の意志を揺さぶり、再定義する力がある。これほどの商品価値を、バザールに腐らせておくのは、国家的な損失だ」
商品価値。その冷酷な値踏みに、私の背筋に冷たいものが走った。
「……評価していただき光栄です。ですが、私の筆は売り物ではありません」
「ふふ、個人の感情など、国家という巨大なパレットの前では一滴の絵具に過ぎないということを、いずれ理解されるはずだ」
セドリックが私の手を取ろうと指を伸ばした、その時だった。
乾いた音と共に、セドリックの手が弾かれた。いつの間にか隣に踏み込んでいたエルドが、セドリックの手首を無造作に叩き落としていたのだ。
「……商品だの損失だの、うだうだうるせえな。エリカ、帰るぞ」
エルドの声は、地を這うような殺気を含んでいた。
「おや、番犬殿は私以上にあなたの価値に執着していらっしゃるようだ」
セドリックは愉快そうに微笑み、去り際、私の耳元をかすめるように低く囁いた。
「大事に抱えておくといい、番犬殿。だが、守りきれるかな?彼女のような、国を塗り替える猛毒を」
セドリックの冷ややかな言葉を背に、エルドが舌打ちをして、私を促し迎賓館を後にした。
外に出ると、バザールは夕暮れの色に染まっていた。
人々の喧騒とスパイスの香りが入り混じる雑踏の中、エルドは繋いだ手に、痛いほどの力を込めていた。その手の震えが、私の心にも伝わってくる。
「……エルドさん。私、彼女を救えなかった」
ぽつりとこぼれた言葉は、情けなくて、自分でも驚くほど弱々しかった。
自信を失い、項垂れる私に、エルドは立ち止まってこちらを振り向いた。
「そんなことはない、あんたはよくやった」
断定するような、力強い声だった。
彼は真っ直ぐに私の目を見て、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「いいかエリカ。あんたが何色だろうが、それをどう使うかはあんたが決めることだ。あんな、他人の人生を駒だと思ってる連中に、あんたの指一本触れさせる気はねえ」
その声は微かに震えていた。私を道具としてしか見ないセドリックへの怒りと、そして私を絶対に渡さないという、叫びのような誓い。
あんなに不器用だった彼が、逃げずに私を見つめている。
「……エルドさん」
不安で冷え切っていた胸の奥に、じわりと温かいものが広がっていく。
私が救えなかったニーナ様の孤独。それを私一人の責任にさせない、彼のぶっきらぼうな優しさが痛いほど嬉しかった。
彼はふい、と不器用に視線を逸らすと、空いた手で頭を乱暴に掻いた。
「明日の午前中、少し時間を空けろ。見せたい場所が、あるんだ」
「えっ?」
「……見せたい場所が、あるんだよ
」
それは、彼から私への、初めての誘いだった。化粧師エリカへの依頼ではなく、ただの私という一人の女に向けられた言葉。
「……わかりました。楽しみにしてますね、エルドさん」
私が微笑むと、エルドは再び私の手を取り、今度は少しだけ優しい力加減で歩き出した。
繋がれた手から伝わってくる確かな鼓動が、今は何よりも私を強くしてくれていた。




