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第16話:鏡の中の不在

 翌朝。


 窓から差し込む朝陽は、砂漠の街特有の鋭さを持って、宿の食卓を照らしていた。昨夜の嵐のような感情の昂ぶりが嘘のように、世界は平穏な顔をして動き出している。


 だが、向かい合って食べるスープの湯気は、いつもより少しだけ白く、そしてひどく気まずく感じられた。


 エルドは昨夜の出来事などなかったかのように、黙々と硬いパンを齧っている。だが、その視線は一度も私と合わない。


昨夜、私の手首を掴み、あんなにも切実に「行くな」と告げたあの男の熱は、今も私の肌に、そして二人の間に、重く、甘く横たわっていた。


 ふと、私がパン屑を少しテーブルにこぼした。それに気づいたエルドが、無意識にそれを指で拭おうと手を伸ばす。同時に私も布を手に取ろうとして、指先同士がぴたりと触れ合った。


 その瞬間、火花が散ったかのように二人の動きが止まる。


「……悪い」


「……いえ」


 お互いに弾かれたように視線を逸らす。視界の端で、エルドの無骨な指先が僅かに震えているのが見えた。

昨夜のあの激しい独占欲と、今のこの子供のような不器用な沈黙。そのあまりに大きなギャップが、私の胸の奥を、くすぐったいような締め付けられるような、不思議な感覚で満たしていく。


 昨夜の彼は、私の手首を自分の袖で乱暴に拭った。セドリックが残した他人の色を、まるで猛毒でも払うかのように。

あの時、彼の瞳に宿っていた暗い情熱を思い出すだけで、私の顔に熱が戻ってくる。


「あのさ……何かあった?」


 不思議そうにアリューが訊ねてくる。朝からスプーンを持ったまま、顔を真っ赤にしてフリーズしたり、挙挙動不審にスープをかき回したりしている私を、彼は怪訝そうに覗き込んでいた。


「ううん、何もないわよ。……ただ、少し考え事をしていただけ」


 私は慌ててスープを口に運んだ。熱い液体が喉を通るけれど、胸の奥の火照りは一向に収まりそうにない。


 そんな静かな緊張を破るように、宿の表に豪華な馬車が止まった。約束通り、ブルークリフ侯爵セドリックの使いが迎えに来たのだ。


「行きましょうか、エルドさん」


「……ああ。あいつがどんな罠を仕掛けてるか分からねえ。離れるなよ」


 エルドは不機嫌そうな、けれど確かな守護を約束する声で言い、私の少し前を歩き出した。


 辿り着いたのは、バザールの中でも一際高くそびえる、最高級の迎賓館だった。王都から運ばれたという白亜の大理石が床に敷き詰められ、その冷たい輝きにエルドの重いブーツの音が硬く響く。


通された応接室には、高価な香の匂いが立ち込め、部屋の主の権勢を物語っていた。


「お待ちしておりましたよ、エリカ様。そして、強面な番犬殿も。昨日は少々、手荒な挨拶になってしまいましたね」


 セドリック侯爵は相変わらずの余裕で、優雅に紅茶を傾けながら私たちを迎えた。


昨日、エルドに手を叩き落とされたことなど、端から気にしていないような振る舞いだ。だが、その微笑みの奥には、獲物をじっと観察するような冷徹な知性が光っている。


 だが、私の視線は、彼の背後にある椅子に釘付けになった。そこには、厚いシルクのベールを頭から被った少女が、何かに怯えるようにして深く腰掛けていた。


彼女の周りだけ、空気が凍りついているかのような錯覚を覚える。


「紹介しましょう。私の妹、ニーナです。ニーナは、ある出来事以来、鏡を見ることを拒み、決してベールを脱ごうとしなくなった。王都の名だたる医者も呼びましたが、誰も彼女の心を解くことはできなかった」


 セドリックが声を落とし、芝居がかった仕草で嘆いてみせる。


「エリカ様、あなたの魔法で、ニーナをこの暗い檻から救い出してはいただけませんか?ニーナの失われた美を取り戻せるのは、エドガーの虚飾を暴いたあなただけだと思っている」


 私が一歩、彼女の方へ歩み寄ると、少女――ニーナは目に見えて身を震わせた。その指先が、豪華なドレスの裾を白くなるほど強く握りしめている。


セドリックが促すと、彼女は拒むような、諦めたような、曖昧な仕草をしながらも、ゆっくりと、その重苦しいベールを押し上げた。


 隙間から見えたのは、凄惨な火傷でも、恐ろしい呪いの跡でもなかった。それは、驚くほど整った、けれど生気を完全に失った、冷たい陶器のような白い肌だった。


 整いすぎたその顔立ちは、美しさを通り越して、魂の抜け殻のように虚ろだった。


――この子は、私だ。


 直感した。

 周囲の過剰な期待や、王都という巨大な社交界の虚飾に潰されてしまったのか。


 これまで私が手がけてきたアリューやカサンドラ、バザールの人たちは、化粧によって自信をつければよかった。けれど、このニーナという少女はそうではない。


 以前の私のように、心を閉ざしてしまった何かを取り除かなければ、どんなに鮮やかな色を乗せたところで、それはただの塗り潰しに過ぎない。


 背後で腕を組み、鋭い視線で周囲を警戒していたエルドが、低く私に問いかけた。その短い呼びかけの中に、私の迷いや気負いを見抜いたような、落ち着かせるような響きが含まれていた。


「……セドリック閣下。正直、ご期待に添えるかはわかりません」


「魔女のあなたでも難しいと?」


 セドリックが薄く笑い、探るような視線を寄越す。私はまっすぐにその目を見返して答えた。


「私はただの化粧師です。ですが、出来る限りの事はさせていただきます」


 私はニーナの前に静かに膝をついた。


 間近で見る彼女の肌は、あまりにも正解を求めすぎて、何も描かれていない冷え切ったキャンバスのようだった。


「ニーナ様。少しだけ、あなたの心に触れるお話をさせてください」


 鞄から取り出したのは、まだ筆ではない。


 彼女の魂を塗り潰している、王都の厚い無色の仮面を剥ぎ取るための、対話の準備だった。

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