第10話:女王の勲章、魔女の武装
カサンドラは扇を閉じ、鋭い眼光で私を射抜いた。
「マダム。時間の流れを巻き戻すのは、神の領域ですわ。私の魔法は、あくまで今ある美しさを引き出すものであって――」
「黙りなさい。できないとは言わせないわ。もし私の期待に応えられれば、この街での活動を全面的にバックアップしてあげましょう。けれど、もし失敗して、私の顔を無様に汚すようなことがあれば……」
彼女の背後に立つ護衛たちが、一斉に剣の柄に手をかけた。食堂の空気が一瞬で凍りつき、野次馬たちの息遣いさえ消える。
私の横で、エルドの身体が微かに沈み込んだ。彼がいつでも獲物に飛びかかれるよう、臨戦態勢に入るのがわかった。
このままじゃ、ここが戦場になっちゃう
私はその逞しい腕にそっと触れて、彼を制した。エルドは驚いたように私を見たが、私の瞳の奥にある決意を読み取ったのか、低く舌打ちをして一歩下がった。
「分かりました。お引き受けしましょう」
「エリカ!?」
エルドが驚愕の声を上げる。けれど、私は確信していた。この傲慢な女王が本当に求めているのは、若さという名の模造品などではない。
「条件があります、マダム。お化粧の間、周囲の方は全員席を外していただきます。それから、鏡は最後に見るまで決して覗かないこと」
「いいでしょう。面白いわ。その度胸、気に入ったわ」
カサンドラは不敵に笑い、宿の食堂を占拠した。
重厚な扉が閉じられ、二人きりになった室内。窓から差し込む斜光が、宙に舞う埃を黄金色に照らしている。
私は静かにパレットを広げた。
私は、彼女が必死に隠したがっていたシワを、あえて一本も消さなかった。
代わりに、指先に集中させた魔力で、シャンパンゴールドの繊細な光をシワの溝へと滑らせていく。
消すのではない、光を添える。
シワを老いの象徴ではなく、過酷なバザールで戦い抜いてきた女王の勲章として、光のコントラストで立体感を生み出していく。
さらに、くすんだ肌色を白粉で殺すのではなく、深紅の血色感を持つクリームを頬の高い位置に、まるで生命を吹き込むように丁寧に乗せていく。
三十分後。私は静かに筆を置き、彼女の前に大きな鏡を立てた。
「……マダム。鏡を、ご覧ください」
カサンドラがおそるおそる目を開ける。
鏡を見つめた彼女の身体が、ぴくりと硬直した。
……沈黙。
部屋の空気が、一瞬で鋭利な刃物のように変質する。
鏡を覗き込む彼女の横顔には、さっきまでの傲慢な余裕さえ消えていた。見開かれた瞳。震える薄い唇。彼女は自分の顔を食い入るように見つめたまま、石像のように微動だにしない。
私の心臓が、耳元でうるさいほどに跳ねている。
隠したかったはずのシワを光で強調され、彼女の逆鱗に触れてしまったのか。背後の扉の外からは、いつでも踏み込めるよう、護衛たちの衣擦れの音が聞こえてくる。
「マダム……?」
呼びかける私の声が、情けないほどに震えた。
その時。カサンドラがゆっくりと顔を上げ、私を射抜くような視線を向けた。その瞳は、怒りとも、あるいは深い絶望とも取れるほどに鋭く、湿っていた。
「……あなた。私が二十年前と言ったのに、あえてこれを見せるのね」
地を這うような低い声。
一歩、彼女が私に歩み寄る。逃げ場のない圧迫感に、私は鞄を握りしめる指に力を込めた。
「シワを消すことはできません」
私は逃げたい衝動を抑え、真っ直ぐに彼女を見返した。
「けれど、そのシワはあなたがこの街で積み上げてきた権力の証です。それを隠すことは、あなたの人生を否定することと同じ。マダム、あなたは二十年前よりも、今の方がずっと恐ろしくて、美しいわ」
カサンドラは、自分の顔を震える指でなぞった。
分厚く塗り固められた白粉の下に隠されていた、女王の牙。それがメイクという武装によって、再び剥き出しになっている。
「……ふっ、ふふふ……」
低く漏れた笑い声が、徐々に大きなうねりとなって部屋を満たしていく。
「あはははは!あははははは!」
部屋の外まで響き渡るような、高笑い。
扉が勢いよく開き、エルドや護衛たちが雪崩れ込んできた。
殺気立った男たちの真ん中で、カサンドラはかつてないほど晴れやかな顔で笑っていた。
「化け物め。あんなに惨めだった私の顔を、これほどまでに武装させるとは。若作りをしていた自分が、泥を啜っていた子供のように思えるわ」
カサンドラは立ち上がり、私に近づくと、その耳元で囁いた。
「気に入ったわ、エリカ。あなたは今日から、私の専属魔女よ。この街であなたに指一本触れる者は、私が許さない。望むだけの金と、場所を用意してあげるわ」
彼女は満足げに、そして全盛期のような力強い足取りで去っていった。
嵐が去った後のような静寂の中、エルドが呆れたように溜息をついた。
「あんた、本当に心臓に毛が生えてるな。あのマダムを相手に、シワを活かすなんて。一歩間違えれば首が飛んでたぞ」
「ふふ、怖かったわよ、本当は」
私は、ようやく震え出した手を隠すように鞄を握りしめた。けれど、エルドはその震えに気づいていたようで、そっと私の肩を抱き寄せた。
「よくやった。これで、この街でのあんたの地位は揺るぎないものになったな」
「あら、特等席で見守ってくれるんでしょう? エルドさん」
私は少しだけ彼に体重を預け、悪戯っぽく微笑んだ。エルドは一瞬、顔を赤らめ、視線を逸らした。
「ああ。ずっと見ててやるよ。あんたがこの街を、どんな色に染め変えるのか」
社交界の女主人の後ろ盾。
それは、私の再起の物語を加速させる、最高に鮮やかな色を手に入れた瞬間だった。




