下山
もしもその道が分岐する地点で別方向を選んでいたなら、きっとこんな場所を訪れることはなかっただろう。だいたい、今の時代の景色としてはあり得ない世界だし、はじめはどこぞの時代劇の撮影村だとしか思わなかった。
しかし、出演者たちに訊ねてみても、まるでこちらのほうが場違いなる来訪者のような話にしかならなかったし、なにより、最初にわたしがその村に到着したときには、珍しくもない登山者であるはずのわたしの周囲に、何か物珍しいものでも見るかのように、出演者たちの人だかりができたのだった。
山へ出発する、その朝の出来事をわたしは今でも克明に憶えている。山と言うほどの山ではないから、至極軽い装いで向かうつもりでいたし、そんな出来事が起きなければ、何か気になる、などという心境にもならなかっただろう。山へ発つ前夜、満タンに充電したはずの携帯が、朝になってウンともスンとも言わなくなってしまったのだ。充電のし過ぎで壊れたのかな、というわたしの言葉に妻は自分の携帯を貸してくれたが、そのときに彼女は言ったのだった。
「それってもしかすると山に行くなってことじゃない? 山で遭難するかもしれないじゃないの。やめたほうがいいかもよ。なにか悪い予感がするの」
わたしの妻はちょっとした勘が働くたちだから、過敏になっているのだろう。そう思ってわたしは彼女を安心させようとした。
「大丈夫だよ。遭難できるほどの山じゃないんだ。何かあったらこいつで連絡すればいいんだしさ」
言って妻の携帯を掲げてみせた。それでも妻は、
「けれど、機械の故障って何かの意味があることがあるらしいし。なかには悪い予兆だってこともあるらしいのよ」
「心配ご無用。夜までには帰るよ。その程度の山なんだ」
そうしてわたしは妻の携帯をリュックにしまって家を出たのだ。
それがかれこれ数ヶ月前のこと……歳月の数え方が時代を超えていいのなら、の話だ。
そう。わたしは時代を超えてしまったのだ。現代という時代から、歴史の教科書に出てくるような、遠い過去という時代へ……
*
わたしがこの時代に来たとき、そこが時代劇の撮影村のようであったことはすでに述べた。しかしわたしにはまさかそこが、江戸時代と呼ばれるような時間上にあることは思いも寄らなかった。
「お前さん、何か困っているようだけれど」
出演者……村人の一人に言われてわたしは携帯を見せた。
「電波が届いていないようなんです。圏外なんですよ」
「ケンガイ?」
色々話すうちに少しずつわかったことは、この村には電気もガスも水道もきていないことだった。その代わりに薪や何かを燃やしたり、水は井戸水や川の水を汲んできて使うとのことで、この時点でわたしは何かのいたずらにでも巻き込まれて、土地勘のないのをいいことに、騙されているのではないかと疑ったものである。
しかしそれは間違いだった。
じつにわたしはいつまで続くかわからない、歴史上の日々を、その江戸時代の世界で過ごしはじめたのだ。
不思議な旅人だということで初めは大名と謁見し、ついには時の将軍にも拝謁した。そこまで至ってようやくわたしは、時を超えてしまったことを実感させられたのである。いや、痛感させられたと言ったほうが、わたしの気持ちをわかってもらえるかもしれない。
それからいつ終わるともしれない心細い歳月が、かろうじて水をたたえた小川のように流れていった。そして遭難から一年ほどが経とうかというある朝、わたしはすっかり忘れていた妻の携帯を、ふと思い出したのだった。とっくの昔に放電しきっていたはずが、なぜかその朝は電池残量がわずかにあったのだ。虫の知らせか、わたしの直感がその朝にかぎり、妻の携帯を見ることを、教えてくれたのだ。
電話をかけた先はわたしの携帯の番号だ。一縷の望みをかけての電話だった。
呼び出し音が聞こえた。まさか! 電話が通じるのか?
――はい。時尾です。サキです。
妻の声だった。信じられないながらも、わたしは応答した。なぜかはわからないが、電波が時を超越したのだ。
「サキ! ぼくだよ! コエルだよ!」
――あなた! あなたなの?
「そうだよ、ぼくだよ! 元気かい?」
――今、どこにいるのよ? あれから何年経っていると思っているのよ。もう、十年よ。十年もの間、行方不明で……え? 江戸時代にいる? あなた、ふざけているの?
時尾コエル……ときをこえる。ずいぶん因果な名前を付けられたものだ。わたしはふらふらとした足取りで、ただ妻に会いたい一心でどこへともなく歩み出た。どこか近くに、電波が時を超えるだけの理由を秘めた場所が、秘密の時空間があるのかもしれない、そんな期待から無意識のうちに向かった先は、初めてこの時代を訪れることになった山道だ。
「あのとき、道が分岐する地点で別方向を選んでいたなら」
何かの希望が、わたしの中で小さいながらも膨らみはじめたのがわかる。山道は当時のままにあった。わたしは分岐点を右へ折れた。それは山を下りる道だった。
「だからさ、本当に登山の最中に迷っちまったんだよ」
帰宅したわたしを出迎えた妻は、
「それで十年もの間、さまよってたって言うの? あのころ、かなりの規模の捜索隊も出たくらいなのよ? それが十年後にひょっこり帰ってくるなんて……」
「いいじゃないか。もう少し喜んでくれよ」
「いいけれど。どうしてかな、わたしは十年分、年をとったのに、あなたはまるで若いまま」
「まるで浦島太郎かい?」
「そう」
「けれど玉手箱はもらわなかったからね。そうすると……」
「何」
それじゃあ、あの山は竜宮城だな、と言おうとして、さっき妻に言われた言葉を思い出した。捜索隊が出動したという地域には、山もなければ丘もないのである。
〈了〉




