第一章 吐くほどの思い
夜が明け、日付が変わった翌朝。
場所は、宮中地下牢獄に移る。
――ガチャン!! キィ゙ー……
ひしめく音を立てながらゆっくりと開き、重々しい地下牢獄の扉が迎え入れたのは、憤怒の形相の雨露。
早朝、蒼波から話を聞きつけ、朝一番にやってきたのだ。
「汀州ー、雨露来たっぽい」
ガシャン!と監獄内に響き渡った、荒々しく閉まる扉に気づき、香月は拷問中の汀州にそれを知らせた。
迫るように近付いてくる彼の足音で、香月と汀州はすぐに雨露の機嫌が悪いことに勘づいた。
しかし、だからと言って二人とも焦る様子もなく、雨露の姿が見えるなり、「お疲れ〜」といつもの飄々とした挨拶で彼を迎え入れた。
「香づ……くっさ!!!」
怒りに満ちた鬼の威厳を放とうと、雨露が空気を吸い込んだ瞬間、鼻をつんざくような刺激臭が、彼の怒りの言動を一瞬で掠めた。
地下牢中に充満する、吐き気を誘う異臭を前に、さすがの雨露も鼻を塞がずにはいられなかった。
「な、なんだこの臭いは!!」
「汀州が絶賛拷問中」
彼が拷問を行う獄中内を指差すと、雨露は口鼻を押さえながら腰を引き気味に近づき、中の様子を覗いた。
牢獄の中では、瀕死状態の中年男性が回転椅子に括りつけられ、その男の椅子を汀州が楽しげに回していた。夜通し繰り返し続けられたそれに、男は意識があるかどうかも分からないほどピクリとも動きを見せない。回転が止まった時の男の様子は、半分白目を向いて天を仰ぎ、半開きになった口からはゲロが漏れ出ている。足元には、おそらくその男が吐いたであろう、吐瀉物塗れの大きな桶が置かれていた。
「ふんゥ゙」
牢獄へ近づくに連れ、雨露の目にどんどん涙が溜まる。むせ返るほどの嘔吐物特有の臭いでもらいゲロをするまいと、根性で必死に耐えている。もちろん、地下だから窓はなく、臭いの逃げ場はどこにもない。
「雨露見てー!」
そんなギリギリ状態の雨露に、汀州は恍惚とした無邪気な笑顔で、桶に溜めた大量のゲロをまざまざと見せつけてきた。
「いっぱい出たー!!」
「そんなもん見せんでいい!!! ふんッ"」
視覚的にも嗅覚的にも強烈な物体を近づけられ、一瞬雨露の両頬が大きく膨らみ、喉越し音と共にすぐに萎んだ。
「ゲロ風呂作るために、回転椅子ぶん回して吐かせるだけ吐かせるんだってさ」
「今はちょっとゲロの出が悪くなったから、水刺間に頼んで、油料理作ってもらってんだ」
平民には滅多にありつけないご馳走も、TPOを弁えないと拷問になるのだと、この時雨露は初めて知った。「油料理」という言葉を聞いただけで、今にも吐きそうである。
「それより、これはどういう了見だ。なんで、窃盗事件の被害者である周 偉燕を拷問してんだ!」
「えーっと……なんでだったっけ、香月」
「お前は理由も分からず拷問してたのか!!」
中身が子どもの汀州にとって、『拷問』は遊び。衛兵隊で投獄者が出たという話になると、拷問の目的を聞かずして、毎度地下牢獄へいの一番に駆け込む。
本来であれば、拷問は脱獄への抑止力のため看守が担うべきなのだが、事実、彼以上に上手く拷問を行える者が看守の中に誰もいないため、誰も文句が言えないのである。
「この男が、春暖の宴で襲撃してきた賊共と繋がっている被疑者だからだよ」
「はあ!?」
「まあ、被疑者つっても、限りなくクロに近いクロなんだけどな。なあ? 吏部官で唯一の南部出身の周さん?」
浩然の奉公先の店主が言っていた、南の訛がある中年の男の正体こそが、この周という男だった。
「香月、ちゃんと分かるように説明しねーと、何かあれば始末書じゃすまねぇぞ。況してや、こいつは高官。万が一、誤認だった場合、下手すりゃ今度はお前があの椅子に座ることになるぞ」
「大丈夫。証拠はもう、押さえてあるから」
そう言って香月は、衣嚢から例のモノを取り出し、雨露に投げ渡した。
「なんだコレ。馬笛? この紋様は……朱雀か?」
それは、浩然が話した、明林の馬笛と同じ特徴を持つ、朱雀が彫られた馬笛。そして、周の執務室で盗まれたはずの、代物だった。
「近衛隊の許可を得て、昨日その男の執務室で見つけた馬笛だ。盗まれたはずの馬笛が、隠すように保管されていた」
「じゃあ、空き巣事件は自作自演だったと? 何のために」
「盗賊との関係を隠すため。彼が自作自演をしてまでも空き巣事件を起こしたのは、馬笛が手元にないことを周りに思い込ませるため」
「ならそもそも、他の盗品と一緒に実際に盗ませれば良かったんじゃ」
「それができない理由があった。なぜなら、その馬笛こそが盗賊との繋がりを証明させるものだったから。その笛の尾の部分をよく見てみ?」
「なんだこれ」
その馬笛の尾には、明らかに何かを彫った跡があった。それは、線が途切れたいくつかの円のような形が、不規則な配置に浮き彫りになっている。
「何か仕掛けがあるみたいなんだが、雨露はなんだと思う?」
「さあな。ただ尾に彫った模様が欠けただけじゃねーの?」
「でもヤスリを掛けた跡があるだろ?」
「頭脳系は九垓に聞けよ。俺にはさっぱりだ」
考える間もなく、雨露は香月に馬笛を返した。
訓練兵時代に座学が苦手だった雨露らしい匙の投げ方である。
「まあ、雨露ならそう言うと思ったよ。だから、蒼波にお貴族御用達の工房まで走ってもらって、ちょいと調べ物を頼んだんだが、なんか伝言預かってないか? お前、蒼波から話し聞いてここに来たんだろ?」
「あー、そう言えば『香月に渡せ』って、なんか紙渡されてたわ」
雨露が袂から預かった紙を取り出した瞬間、香月は彼の手からそれを奪い取った。急ぎ中を認めると、そこに書かれていた内容に、香月は不敵な笑みを浮かべた。
「やっぱりな。あ」
読んでる最中に、突然紙が香月の手を離れて宙を舞う。
説明もなく一人楽しむ香月に、苛立ちを露わにした雨露が、最後の警告を行う。
「だぁーかぁーら! 説明!!!!」
鼓膜が破れそうなほどの鬼の怒号を喰らい、ようやく香月は彼にこれまでの事の有様を報告した。
1週間程前、外出中の西国皇帝にガキが接触し、そのガキが春暖の宴で、盗賊を手引きした女のガキであること。その母親が処刑されたが、母親は何者かから金成木の馬笛を譲渡され、貴族の関与が疑われるところであり、その黒幕がまだ野放しになっていること。
「宴襲撃の内通者は、おそらくそいつだ」
これまでの経過を話せば話すほど、雨露の眉間のシワがどんどん深くなった。しまいには、地下中に響く怒声で「なんでそんな大事なことを、勝手に調べてやがった!」とこっ酷く叱られてしまった。
あははー……と引き笑いでなんとか雰囲気を誤魔化しつつ、香月は最後まで話を続けた。
「で、もしかしてその馬笛が?」
「半分ハズレ。今さっきの蒼波の手紙で、その答えが書いてあった。工房の主人の話によれば、とある御人に依頼され、特注で朱雀紋入りの金成木の馬笛を二つ製作したらしい」
「その御人ってのは?」
「吏部長の丹 燕雀。そこでくたばってる周 偉燕の直属の上司だ」
「はぁ〜」っと、それはそれは深いため息を吐きながら、呆れた様子で、近場の椅子に雨露はドシッと腰かけた。
無理もない。彼は、今近衛隊が捜査している内通者の容疑者とは全くの別人。これは諸に近衛隊の面子を潰しかねない事象。これ以上、近衛と衛兵の関係を拗らせるような真似を避けたいのが、雨露の切実な願い。
「だが、馬笛だけでは盗賊との関係を示すには証拠としては弱過ぎる」
「今回この男を引っ張ったのは、盗賊とは別件だ。ガキの話によれば、周は、今期の科挙の試験問題を漏洩させ、盗賊の手下共を不正合格させた疑いがある」
「何?」
訝しげに尋ねる雨露のその奥で、周がピクリと体を反応させたのを、香月は見逃さなかった。
「明林が貴族と逢引するために利用していた店主の話によると、先の秋終わりに、南の訛を話す中年男性が、大量の書簡を女に渡したって。時期的に、次期の科挙の問題が完成した頃だ。今、当時の文官の合格者について調べてもらってる最中だ」
「なら、周を地下に引っ張るのはその証拠が上がってからでも良かったんじゃねーのか?」
「ちゃんと昨日のうちに、最低限の調べは済んだから大丈夫。科挙で同じ回答者を何人も合格させるなんて、明らかにおかしいだろ」
信頼おける吏部の人間に協力してもらい、何人かの合格者の回答を確認した時点で、香月は周が賊と繋がっていることを確信した上で、地下牢に引っ張り出していた。
「吏部の次官を務めるこの男なら、科挙の問題の横流しなんて朝飯前。今期の科挙の試験問題を漏洩させ、盗賊の手下共を不正合格させたとなれば、盗賊との関係性は言い逃れできない。あとは、大元である丹 燕雀の繋がりを吐かせれば、宴の襲撃については一件落着なんだが……」
香月がこの拷問の間、偉燕に行った尋問は、あくまで燕雀の関与についてのみ。盗賊の策略や、居処を突き止めるのではなく、偉燕の企みが燕雀が指示したものによるものかどうかを問い質した。
「それで、偉燕は何か吐いたのか?」
「さっき見せたじゃん」
ここぞとばかりに、汀州が再び桶の中の吐瀉物を雨露に見せつけてきた。
「そっちじゃねぇ! なんか情報は出たのか聞いてんだ!! ゲロ臭ぇからそれ以上吐かせんな!!」
「情報は何も出てねーに決まってんだろ」
「汀州殺っていい?」
ただ趣味を楽しむだけの汀州に、とうとう雨露の右拳がふるふると震え始める。
「近衛隊が容疑を掛けている奴を引っ張り出すのも時間の問題だ。もし誤認だったら、尊陛下の立場がないぞ」
今の政治の在り方に文句を抱く者が多いのは言うまでもない。そんな中、まだ政治への影響力を有する数少ない貴族を敵に回すような真似をすれば、宮廷の地盤は今以上に弛みかねない。
「一つだけ。まだ彼に、聞いていないことがある」
異臭放つ牢屋に近づき、意識が朦朧とした虚ろな目で俯く偉燕に届くように、香月は柵越しに語りかけた。
「この馬笛が、成す意味は?」
しかし、反応はない。だが、それでも香月は、質問を続けた。
「無駄に金を掛け、小細工まで施した馬笛を2つも作らせ、剰え偽造がバレるリスクを犯してまでも、片割れを手元に残した。明林を獄中死させてでも、あの馬笛の回収にこだわったのは……盗賊共を裏切るためか?」
投げた質問に返ってこない答を待つ間、長い沈黙が続いた。誰も口を開かず、ただ男の声が聞こえてくるのを待つ中で、偉燕が吐いた吐瀉物の水滴が石床に滴る、ぽつりぽつりという音だけが牢獄内にしばらく響いた。
――そして、蝋燭の蝋が三滴ほど受け皿に垂れた頃、漸くその瞬間がやってきた。
「…………り……ん」
昼投稿か夜投稿か迷い中。。。




