第21話 カラノスからティレッタへ2. 国境越えの体験
(AIアリスのモノローグ)
境界線とは、常に人工物です。地形に沿い、時に政治の都合に従い、人々の意識の中に焼きつけられる線。それを越えるという行為は、ただ地面を跨ぐだけではありません。価値観、常識、そして言語の“ほんの少しのズレ”を積み重ねて、ようやく私たちは「異国に来た」と気づくのです――。
* * *
夜明け前のカラノスは、まるで布団の中でうごめく夢のようだった。石造りの家々が朝靄に包まれ、通りにはまだ灯りがちらほらと残っている。そんな幻想的な空気の中を、一台の馬車が石畳をコトコトと鳴らしながら進んでいく。
ジャックは車窓の外を眺めていた。霧のヴェールをくぐるようにして街を抜け、馬車はやがて乾いた風が吹き抜ける丘陵地帯へと入った。
「カラノスって、寝ぼけた巨人みたいだな……朝は特に」
そう呟くと、隣の席のグレイが「比喩にしては風流すぎるな」とくすりと笑った。ユリスは膝に置いた荷袋の紐をほどきながら、「でも空気が軽くなった感じ、わかる」と同意する。
朝靄を抜けてしばらく行くと、景色は急速に色を変えていく。乾いた風に吹かれ、赤茶けた岩丘が続き、ぽつぽつとトゲのある低木が点在している。王国の湿った森の風景とは対照的な、明るい乾燥地帯。太陽はじわじわと高くなり、空の青が眩しいほどに濃くなる。
「……風のにおいが違うな」
馬車の座席から鼻をくんくんさせていたジャックが、ぽつりと呟く。アスファルトもコンクリートもないこの世界で、においの差は風土の違いそのものだった。
「オルネラは乾燥してるからな。土が、砂みたいになる」
グレイの言葉に、ユリスもジャックも小さく頷いた。
そして、正午が近づく頃。丘を下ると、その先にティレッタの街が姿を現した。
見下ろす形になった街の風景に、ジャックは目を見張った。
「うわあ……!」
遠くからでも目を引く、平たい屋根の建物たち。壁は全体に砂色で、ところどころに赤茶の装飾。通りはまっすぐに伸びており、石畳は大粒でざらついた質感だ。王国の都市とは、同じ「都市」であるにもかかわらず、まるで異なる手触りがそこにあった。
やがて馬車はゆるやかに速度を落とし、街の入口にある半円状の石門へと向かう。その中央には、オルネラ公国の簡素な紋章――天秤と麦の束――が彫られていた。
「ここが国境だ」
グレイが静かに言う。馬車は停止し、乗客たちは順に降ろされる。検問のためだ。
門の前には、鎧に身を包んだ兵士が数名。王国の制服とは異なるデザインで、色味は淡い灰色と緑を基調としている。ひとりの兵士が前に出てきて、手に持った棒状の魔導具をかざした。
「魔力検査だ。順に前へ」
先に進んだグレイとユリスに続いて、ジャックも一歩前へ出る。彼の中で、魔力量が自然に抑え込まれていく。
《マナベール展開。魔力総量、表面感知レベルまで低減》
アリスの無機質な声が、頭の中で響いた。
兵士は魔導具をジャックの胸元にかざし、小さく頷いた。
「問題なし。次」
そして手荷物の軽い確認。ジャックの荷袋を見ていた兵士が、ぽつりと言った。
「……こっちじゃ、魔法は“工具”みたいなもんだ。危なっかしいだけじゃ使えんよ」
その言葉に、ジャックは思わず立ち止まった。魔法が“道具”……?
《社会的視点からの魔法評価です。王国の“権威”としての魔法と、オルネラの“効率”のための魔法。目的と価値基準の違いが観察されます》
「ふーん……魔法の“あり方”まで違うんだな、国によって」
《はい。いずれ、思想や法体系にも差異が現れるでしょう》
短いやりとりだったが、ジャックの中に「魔法=力」ではなく、「魔法=使うもの」という意識が芽生えた。
入国を終えて、三人はようやくティレッタの街へと足を踏み入れた。
最初にジャックが感じたのは、「通じるけれど通じにくい」言葉の微妙な違和感だった。
「すんませーん、グリファ通りはこっちですー!」
大声で呼び込みをする店の若者。その声色や語尾の伸ばし方が、王国の町人とは微妙に異なっている。
さらに、看板のレイアウトも違っていた。文字は同じなのに、横書きの配置や強調の仕方、装飾の流行が王国とはまるで違う。
「……おんなじ言葉なのに、ちょっと酔いそうになるな」
「地方に行くほどクセが強くなるのは、どこでも同じだよ」と、グレイが苦笑する。
ようやく辿り着いた宿は、「グリファ通りの止まり木亭」。二階建ての石造りで、入り口には鳥の巣を模した木彫りの看板がぶら下がっている。
中に入ると、受付の女将がにこやかに迎えてくれた。
「三名様? じゃあ、こちらにお名前を」
出されたのは、木板式の名簿だった。紙ではなく、薄く削った木片に名前を彫る形式らしい。ジャックは興味深げに自分の名を刻む。
さらに、宿泊カード代わりに渡されたのは、小さな色付きの小石。それぞれの色で部屋が判別されるという。
「うーん、システムが全部“ちょっと違う”な」
ジャックは小石を手の中で転がしながら、ベッドに倒れこんだ。
違和感の蓄積――それは、まるで異なる色の積み木をひとつひとつ積み上げていくような感覚だった。
(AIアリスのモノローグ)
異国とは、色彩や空気の違いだけではありません。言葉の調子、物事の扱い、価値の尺度――それらすべてが、国という存在の「肌触り」を形作っているのです。ジャックは今、その“違い”をまだ言葉にできずとも、確かに肌で感じ取っていました。そしてそれは、旅人が得るべき、最も大切な知識のひとつなのです。




