第18話 辺境領の領都2. 市場での発見と盗難事件
――世界は広い。
そして、広さとは、物理的な距離だけを指すものではない。
見たことのない技術、知らなかった価値観、出会ったことのない「誰か」。
ジャックが「それ」を学び始めたのは、この日だった。
では、観測記録を開始します。
* * *
朝の陽光が、岩山に囲まれた都市アスガリオンの屋根瓦を赤く染めていた。
石畳を踏みしめながら、ジャックは目をきらきらさせていた。
「グレイさん! あれ見て! 水、出てる!」
指差した先には、街角に据えられた桶と鉄製のハンドル。見た目はどこにでもある手押しポンプだが、ハンドルの根元に小さな魔石が埋め込まれていた。ジャックが目を凝らすと、薄く光るルーンの残滓がちらついている。
「重そうだけど、魔力の補助で引き上げてるんだね。効率は悪いけど、工夫の跡があるねえ。」
「ふむ、生活魔道具の原型としては上出来じゃな。」
グレイが顎ひげを撫でる。
市場は朝から賑わい、香ばしい焼きパンの香り、肉の脂が跳ねる音、果物を売る声が飛び交っている。
目を引いたのは「光る量り」。果物の乗った皿の下に埋め込まれた魔石の色が、重さに応じて赤から青へと変化していく。
「視覚的でわかりやすい。測定器として、誤差は大きいけど子どもでも扱える設計だ……」
そう言いながら、ジャックはちゃっかりノートを取り出して何やら書き込んでいた。
そんな平和な空気を引き裂くように――
「おい! 盗まれたぞォ!!」
怒鳴り声が市場の一角から響き渡った。果物屋の赤ら顔の親父が、青リンゴを散らばらせながら店先で怒鳴っている。
「子どもだ! 子どもが二人、リンゴを持って走ってった!」
野菜売りの女性が叫ぶ。周囲がざわつき、足音が遠ざかる。
「ジャック、首を突っ込むな。市場警備に任せ――」
「ごめん、行ってくる!」
グレイの言葉が終わる前に、ジャックは駆け出していた。
魔力制御をぎりぎりまで絞り込み、小声で詠唱。
「……《感知・微弱魔力》」
周囲の喧噪と人波の中に溶け込むような、微細な魔力の揺らぎが、街路の石畳にうっすらと残っている。
足跡と共に、子ども特有の不規則なリズムが混じっていた。
「こっちだ……」
脳内のアリスが補助計算を行い、魔力残留の方向と変化を指示してくれる。
《路地の奥。速度から見て、追いつける可能性あり。通報より先に接触を推奨》
「了解、アリス」
しばらく走ると、人気のない裏通りにたどり着いた。崩れかけた石壁、割れた木戸。
その隙間から、微かな気配――息を潜めた気配がする。
ジャックは音を立てず、静かに扉を押し開けた。
そこにいたのは、泥まみれの二人の子どもだった。
兄の方は七歳くらい、短く切った茶色の髪。
妹は幼く、顔色が悪い。手に持った青リンゴにかじりつきながらも、怯えた目でジャックを見上げていた。
「……君たち、名前は?」
ジャックはしゃがみこみ、できるだけ優しい声で問いかけた。
「……言うもんか……っ」
兄の方が、震える声で答える。手には錆びたナイフが握られていた。震えている。
「……怒ってない。君たちが悪いんじゃない。何があったか、教えてくれない?」
妹が咳き込んだ。小さな手が、青リンゴをしっかり握っている。
ジャックは焦らず、ただその場に座り込んだ。
しばらくの沈黙のあと、兄の口が開いた。
「……オレ、ユリス。妹はミナ。……母ちゃん、病気で死んだ……」
短い言葉だったが、その一つ一つは重かった。
親戚に引き取られることもなく、誰にも頼れず。
市場の裏で落ちた果物を拾って生きていたこと。
でもミナが熱を出し、食べさせたくて――それで今日、リンゴを。
ジャックは一度、深く息をついた。
「ユリス。ミナ。……おなか、すいてるでしょ?」
ミナがこくりとうなずく。ユリスは、目を見開いたまま黙っている。
「まずは、ごはんを食べよう。そのあと、一緒に考えよう?」
彼の言葉は、兄妹の心に少しだけ灯をともした。
* * *
――小さな違反は、大きな絶望の果てに起きることもある。
アリスとしては、法と秩序を守ることは重要と考える。だが、それだけでは測れない状況もまた、この世界には存在する。
ジャックは、その狭間に立つ少年だ。
……では、引き続き観測を継続します。




