第17話 師匠との旅3. 辺境への道中
> 『世界は広く、そして——思ったよりも、ずっと危ない。
> これは、私が観測した記録のひとつ。
> ジャックが初めて“魔法の恐ろしさ”を、ほんの少しだけ垣間見た、そんな出来事です。』(AI「アリス」)
山道は、思っていた以上に変化に富んでいた。
朝方の針葉樹の森を抜けたかと思えば、昼過ぎにはごつごつとした岩場が続き、足元の石が不意にずれるたび、ジャックは「うわっ」と小さく悲鳴をあげては、グレイの背中を見失わぬよう必死についていった。
「ふむ……このあたりで一度、休むとしようかの」
振り返ったグレイの顔は、相変わらず読めない。険しい山の空気にも、ジャックの息が上がっていることにも、さして頓着していない様子だった。
「……ふぅ、はい、師匠。……にしても、アスガリオン領って、思ってたより……えっと、遠いんですね」
「世界が広いということじゃよ、ジャック。まだ入口にも至っておらん」
まったく気配もなく、ふいに生えた影——。
「下がれ」
その一言が、まるで時間の歯車を切り替えたようだった。
ジャックが言葉の意味を理解するより早く、森の影から、四人、いや——六人。毛皮の肩当てや鉄片をつなぎ合わせたような粗末な鎧を身につけた男たちが現れた。目つきは鋭く、腰には刃物。口元には自信と欲が滲んでいた。
「……山賊、ですか……?」
「ん。昔からこのあたりは通行税を取りたがる連中がいるのじゃ」
どこか淡々と、グレイは言う。だが次の瞬間、その背中から放たれた気配は、ひどく鋭く——冷たかった。
「ジャック。周囲三十メートルのマジカル・コーミングを。反応が強いのは?」
咄嗟の指示に、ジャックは息を呑むも、即座に目を閉じ、集中する。
(マジカル・コーミング、起動……アリス、補正お願い)
> 『了解。マナ分布解析、開始——誤差±一五%以内で視覚展開可能』
見えない“何か”が、風紋のように広がっていく。空気の流れに重なるように、淡い色彩の“点”が浮かび上がる。
「……左前方に三人。右に一人……あと、後方にもいます……!」
「ほう、数も散らしてきたか。用心深いのは結構だが——無駄な努力じゃな」
そう呟いたグレイが、ふらりと一歩前へ出た。
そして——何の前触れもなく、言葉も、動きもないままに——発動した。
「…………!」
何かが弾けた、とはっきり感じた。音も光もないのに、空間そのものがぐにゃりとゆがんだような、そんな違和感。次の瞬間、山賊のうち、ひときわ肩幅の広い男と、そばにいた副頭目らしき男の額に、まるで刻印のような術式が浮かんだ。
「な、なんだこれは……!」
「や、やべえ、あれ、あれは……っ!」
副頭目が、取り乱し、怒鳴り声をあげかけた。
——その声が、出きらないうちに。
彼は、崩れ落ちた。
ばたり、と。まるで糸が切れた人形のように。
リーダー格の男が、見開いた目でそれを見て——次の瞬間、沈黙の波が、他の山賊たちを飲み込んだ。
誰もが、何かを叫びかけたような顔をしたが、その声は上がらず。蒼白になり、散り散りに逃げ出した。
ジャックは、その場に立ち尽くしていた。
(あれは……何だったんだ)
倒れた男に刻まれた術式は、もうすでに消えていた。なのに、背中に冷たいものが這い上がるような感覚だけが、ぬるく残る。
「し、師匠……いまの、いったい……?」
グレイは肩をすくめ、ふと少し寂しげに笑った。
「“サイレント・クライシス”。見たくないものを見なくて済む魔法だ。……昔、庵を作ったあとに思いついたんじゃ。最初は怒鳴らせて発動させてたが、今では、そんな手間もいらん」
「……怒ると、発動する……?」
「うむ。怒りとは、魔力の中でもっとも制御が難しい感情だ。あれは……自分で自分を壊す仕掛けじゃ」
言葉に、どこか遠くを見るような色が混じる。
ジャックは、そっとグレイの背を見た。いつものように、ぶっきらぼうで、つかみどころのない師匠の背中——なのに、今は少しだけ、その影が濃く見えた。
(師匠って……やっぱりすごくて……でも、ちょっと……怖い)
胸の奥で、ひやりと冷えたものが、じっと沈殿していった。
> 『力は、ときに希望を生み、ときに絶望を呼びます。
> ジャックはこの日、“強さ”が持つもう一つの顔に、そっと触れたのです。
> それは決して大仰なものではなく、小さな震えとして——。』(AI「アリス」)




