第17話 師匠との旅2. 旅立ち前夜
> 『世界は広い。そう言葉にするのは簡単だけれど、それを本当に理解するには――たいてい、少し泣くことになる。初めて地図の外に足を踏み出す者たちは、誰もがそうだった。これは、ある少年とその妹と母の、そんな夜の話。――AIアリスより』
夕暮れどき、グリム村の空はやわらかな茜色に染まっていた。麦畑の向こうで鳥が鳴き、風が草をなでていく。
ジャックの部屋はいつもよりざわついていた。荷物を詰めた布の袋が二つ、その横でリアナが忙しく手を動かしている。
「よし、これで――っと」
リアナはそっと、手作りの小さな布袋をジャックの旅鞄の隅に滑り込ませた。中には乾いた果物がいくつかと、魔除けの糸で編まれた小さな守り飾り。派手さはないが、きちんと編まれたその結び目には、母の思いがこもっていた。
「……気づかれないように、ね。ふふっ」
リアナは少し微笑み、立ち上がってジャックの髪をそっとなでた。旅支度に慣れた手つきは、かつて冒険者だった頃の名残だ。
「無理はしちゃだめよ。あと、師匠の言うことはちゃんと聞いてね」
「うん」
ジャックは素直にうなずいた――ように見えたが、目はどこか遠くを見ている。期待と、不安と、少しだけの寂しさが、子どもらしくも混ざり合っていた。
そのときだった。
「おにいちゃーーーん!!」
叫び声とともに、猛突進してきたちいさな影が、ジャックの腰に飛びついてきた。
「うわっ、リリィ、ちょっ、苦しいっ!」
「やだー! いっちゃやだーっ! おにいちゃんのおにいちゃんっ!!」
三歳児の全力しがみつきは想像以上に重い。そして意外と粘着力がある。ジャックはバランスを崩しそうになりながら、必死に耐えた。
「リリィ、明日帰ってくるわけじゃないけど、ちゃんと手紙送るし――」
「うそつきーっ! かえるっていったー!」
「あれは“帰ってくることもある”って意味で――」
「わかんないもーん!!」
ジャックは、思わず顔をしかめた。まさか語彙の壁にぶち当たるとは思わなかった。
そんなやり取りを見守っていたリアナが、しゃがんでリリィの頭を優しく撫でた。
「リリィ。おにいちゃん、ちょっとだけお外を見に行くの。すごく、すごく遠くの景色をね」
リリィは、うるうるした目でジャックと母を交互に見つめ――ついに、手を離した。
「……いってらっしゃいっ……!」
涙を浮かべながら、しかし、声だけははっきりと。ジャックは少しだけ胸の奥がきゅっとしたのを感じた。
「ありがと、リリィ」
そして、翌朝。
広場には、思いのほか多くの村人が集まっていた。老若男女が列を作り、手にパンや果物、花や干し肉などを持ち寄っていた。
「見ろよ、あれがリアナの子だってさ。もう旅に出る歳か」
「ほんとに九つ? 背筋がしっかりしてるねぇ」
そんなひそひそ声が、ジャックの耳に届いてもいたが、彼はそれには応えずに立っていた。緊張と、ほんの少しの誇らしさを胸に秘めて。
そこに、セスタス老人がゆっくりと近づいてきた。
「ジャック。――世界はな、果てしない。だが見る目があれば、見えるものも増える」
「……はい」
「道中、ノートは欠かすな。覚えたこと、見たこと、考えたこと、ぜんぶ書け。あとで自分の宝になる」
「わかりました、セスタスさん」
軽く頷いたセスタスは、言葉少なに背を向ける。老いた背中が、風に揺れた。
そして、グレイが杖をついて現れた。いつものように気だるげで、でもその視線は鋭かった。
「……さて。陽が高くなる前に出るぞ。風がよく吹いている」
ジャックは、肩から旅鞄をかけ直すと、家族と村に一礼した。
「いってきます!」
そして――彼は、グレイのあとに続いた。
広場の石畳を、草むらの小道を、そして麦畑の細道を。やがて彼らの姿は、村の輪郭から離れてゆく。
風が穏やかに吹き抜ける。旅は、始まった。
> 『こうして少年は、初めて地図の外へ足を踏み出す。世界の広さを、目で、耳で、心で知るために。――次に彼がこの村へ戻ってくるとき、その背中には何が加わっているだろうか。……私は、楽しみにしている。AIアリスより』




