第16話 師匠の遠出と村での日々1.修行の一区切りと師匠の出発
### アリスの語り【冒頭】
人が未来に備えるとき、それは「未知」に立ち向かう覚悟を意味する。
でも――その準備は、決して特別なものでなくていい。
穏やかな朝。手にした道具。交わした言葉。
そうした“日常の積み重ね”こそが、もっとも堅固な「備え」なのだから。
この日、ジャックはひとつの節目を迎えた。
師からの問いかけと、ひとりきりの日々。
そのすべてが、彼を次なる扉へ導いていく――。
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森の奥、苔むした岩を背にした庵では、今日も静かに朝の光が差し込んでいた。
鳥のさえずりが屋根をくすぐり、魔力で沸かされた鉄瓶がしゅんしゅんと湯気を立てる。
「……ふむ。いつも通り、か」
朝の修行を終えたジャックは、ほこりを払いつつ腰をおろした。
プラズマオーブは淡く輝き、机の上のノートを優しく照らしている。
対面のグレイが、湯呑を手にしながら、ぼそりと呟いた。
「一区切りだな。お前の修行も、いったんここまでだ」
「……あ、はい」
ジャックはすぐに返事を返したものの、その言葉の重みを正確に理解するまで、わずかに間があった。
だが、驚きはなかった。むしろ、淡々と、自然に受け止める自分に気づく。
アリスが脳内で小さくつぶやく。《修行進度:想定より12.3%上回っています。感情反応:安定》
ジャックはノートを開いた。筆記具の先に少し魔力を込めながら、ページに記す。
「修行の一区切り。
成果:魔力制御の安定、術式構築の反復精度向上。
課題:対人下での行動制御、魔力遮断の自然化。
補足:精神集中時の自己同調率が若干不安定。対策検討」
カリカリ、と小気味よく魔道筆が走る。
今ではこのノートに、彼の知識と気づきがびっしりと詰まっていた。
「……それと、もうひとつある」
湯呑を置いたグレイが、少し顔を上げた。
「来週から、少しの間、留守にする」
「どこに行くんですか?」
ジャックは素直に訊いた。軽い口調だが、その奥には情報を整理しようとする目がある。
「王都の近くだ。知り合いに会いに行く。――伯爵様だ」
「伯爵……?」
「昔な。まだ王都の魔法研究院にいた頃、政争の渦に巻き込まれかけた男だ。
命を落とす寸前だったのを、俺と……数人で救った。今は貴族として無事にやっている」
グレイの目が、ほんの少しだけ懐かしげに細められる。
「その縁を頼って、王都魔法学院の後援について話してくる。
お前が入学する予定の場所だ。少しでも、釘を刺しておきたくてな」
ジャックは頷いた。言葉にはしないが、その意味が分かっていた。
王都魔法学院。名門であり、貴族の子弟が多く通う場。
“農民の子”が正当な評価を受けるには、何重もの壁がある。
「……だからこそ、お前に出しておく課題がある」
グレイは、焚き火の方へ目をやった。火が、パチ、と弾ける。
「お前の力をどこまで隠せるか。それをこの村で試してみろ」
「……隠す、ですか」
「そうだ。隠して、抑えて、普通の村の子として、過ごしてみろ。
力というのは、ただ強くても使いものにならん。
世の中には、気づかれない強さ、知られない知恵ってものがある」
その言葉を聞いて、ジャックは深く頷いた。
アリスも静かに分析を進めている。《課題内容:社会的抑制力テスト。目的:共存適応能力の評価》
「……わかりました。やってみます」
そう言ったとき、ジャックの中にひとつの明確な目標が灯った。
――一年後。王都魔法学院。
その時までに、自分は「自分の力を自在に操る者」になっている。
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別れの朝は、あっけないほど静かだった。
グレイは小さな布袋に必要な道具を詰め、杖を背に軽く背負った。
庵の周囲は朝露に濡れて、どこかしんと静まり返っている。
ジャックは庵の前で立ち、ただ一礼した。
「いってらっしゃい、師匠」
「おう。庵は使っていい。魔獣が出たら火を焚いて知らせろ。あと、ノートのページを無駄にするなよ」
「はい。……お気をつけて」
無言で頷くと、グレイは苔の道を静かに歩き出した。
その背が木立の向こうに消えるまで、ジャックは微動だにせず見送った。
やがて、森の風がふっと吹き抜ける。
庵の空気が、ほんのわずかに静かになったような気がした。
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### アリスの語り【ラスト】
魔法とは、力だけではない。
誰に見せるのか。誰に隠すのか。どこまで自分を知るのか。
そのすべてが「術」となる。
小さな村での日々は、ひとつの試練。
けれどそれは、恐ろしいものではない。
――この少年なら、必ず乗り越える。
それは、計算でも予測でもなく。わたしの、確信だ。