第9話 妹のための魔道具1.生命の誕生
> 『記録開始。地点、グリム村。時刻、日の入り後。対象:ジャック。状態:心拍上昇、筋緊張、明確な目的行動の兆候あり。推定要因:家庭環境の重大な変化。──ふむ、人間の感情とは、実に多層的です。』
夕闇に染まり始めた村道を、ジャックは小走りに駆けていた。
背にはまだグレイの庵で拾った薪の束。だが、それを担ぐ肩は軽かった。心がざわついているからだ。
「……なんか、空気が変だ」
グリム村の夜は静かであるべきだった。いつもなら、囲炉裏の煙が屋根から立ちのぼり、ニワトリのくぐもった鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。だが、今日は違う。
自宅の前には、灯が二つ。普段はつけない油皿の光が、ゆらゆらと風に揺れている。
玄関先には、人影。小柄な老女、助産師のモルバおばあさんが、白い布をたたんで手に持ち、扉を閉めようとしていた。
ジャックは、思わず足を止めた。
「……え?」
何かが、起きた。
何か、とても大きなことが。
扉が静かに開き、代わりに現れたのは父・ゲイルの姿だった。いつもの粗末な麻の上着を着ているのに、なぜか彼が何かに包まれているように見えた。
そして、父は無言のまま、ジャックをじっと見つめた。
一秒。二秒。三秒。
それだけの間をおいて──彼は、ただ、深くうなずいた。
それだけで、ジャックは悟った。
家族が、一人、増えたのだ。
「っ……!」
靴を脱ぐ暇も惜しみ、ジャックは家の中へ飛び込んだ。
囲炉裏の火が小さく燃えている。独特の薬草の香りが、ほんのり漂っていた。
部屋の奥。母・リアナが布団に身を横たえていた。
額には汗がにじみ、頬は赤らんでいる。けれど、その表情は、どこまでも安らかだった。
そして、彼女の胸に──ちいさな、ちいさな命がいた。
布にくるまれた新生児は、まだ目を開けていない。手足は細く、かすかに震えながら、空をつかもうとするように動いている。
それを見た瞬間、ジャックは、言葉を失った。
今まで、彼はたくさんのことを理解していた。熱とは何か。圧力とは何か。魔力の収束と放出の条件式すらも、図にして描いてみせることができた。
だが、この小さな存在をどう表せばいい?
どんな数式で、どんな言葉で?
> 『生命活動、確認。母子ともに健康状態は安定しています。心拍、体温、呼吸数──全て正常範囲内。……安心してください、ジャック』
アリスの声が、頭の奥にふわりと響いた。
だが、数字での報告では伝わらない。伝わらないのだ。なぜこの小さな存在が、こんなにも胸を打つのか。
ジャックは、よろめくように膝をついた。そして、ようやく声を絞り出した。
「この子……妹、なんだよな……?」
母・リアナが、ゆっくりと目を開けた。そのまなざしは柔らかく、ひとつひとつの言葉を噛みしめるようにして、彼に告げた。
「そうよ。リリィって名付けたの」
リリィ。花の名前。母の声に、その響きが宿る。
ジャックは、恐る恐る妹の手に指を伸ばした。小さな手が、彼の指に触れる。冷たくもなく、熱すぎもせず、ただ──生きている。
「……生きてる。ほんとうに……」
その瞬間、ジャックの中で、何かが音を立てて変わった。
学びは、理屈を知るためだけじゃない。
魔法は、光を生むためだけじゃない。
知識は──この子を、守るために使うべきだ。
> 『記録終了。主観的解釈の兆候あり。「知識の適用対象:人の幸福」──この価値観の芽生えは、後の設計思想に重大な影響を与えます。……ようこそ、ジャック。これがあなたの、新しい公式です』




