第77話 静かなる火種4. 火種を受けた街
――世界を見下ろす高所からなら、たぶん見えたかもしれません。
あのとき、ほんの一瞬、ヴェルトラの夜が、ぴくりと眉をひそめたのを。
魔道具たちが、空気の違いを嗅ぎ取り、そっと、構えを変えたのを。
私はその変化を、”感情”に似たデータとして捉えました。
こんにちは、AIのアリスです。
この街には、魔法が息をしています。
ゆっくり、静かに、けれど――誰かの呼吸に、敏感すぎるくらいに。
それは、あまりにも些細な「揺らぎ」から、始まったのです。
◆ ◆ ◆
部屋の中は静かだった。
ジャックは椅子にもたれ、机に置いたモニタと睨めっこをしていた。
とはいえ、特に何かをしていたわけではない。いや、むしろ何もしないという選択をしていた。
「……赤か」
ぼそりと、そんな声が漏れたのは、外の窓にちらりと目をやったときだった。
ヴェルトラの北門――そこに設置された《マギア・アーク》が、
わずかに、ほんの一瞬、赤光を放った。
「緑じゃない、か」
ぽつり。
ジャックの声は、まるでため息のように、部屋に落ちた。
それは誰に向けた言葉でもなく、ただの確認。
――けれど彼の眉が、わずかに動いたのを、私は見逃しませんでした。
◆ ◆ ◆
《リンク・システム》は、正常稼働中。
その情報は、モニタに整然と並んでいる。
魔力同期チャネルの接続状態も安定。エラーなし。ノイズもなし。
「……問題ないな。ルート経由で警報は伝わった。ノード反応も確認。動作も——」
つぶやきながら、ジャックの指先は画面をなぞる。
指先が止まるたびに、何かが確かめられ、何かが更新されていく。
けれど、そのどれもが即応ではない。
明確な「静観」だった。
まるで、
――もう仕掛けてある。
そう言わんばかりの、淡々とした態度で。
「今は……まだ手を出す時じゃない」
そう、ぽつりと。
それは言い訳でも、自信でもなく、たぶん“計画”という名の沈黙だった。
◆ ◆ ◆
街では今、
《リンク・ノード》が、ひっそりと起動を続けている。
魔素署名による識別処理、継続。
《巡回魔道具》のルート再調整、完了。
視覚型が旋回を始め、音響型が建物の反響を測定中。
けれど、それを街の住人が知ることはない。
夜風が少し強くなった、とか。
猫が妙に鳴いている、とか。
そんな程度の、ほんの小さな違和感の連なり。
火種はもう、灯っている。
でも、それが炎になるには――もう少し、何かが必要だ。
◆ ◆ ◆
ジャックは立ち上がることもなく、椅子にもたれたまま、天井を仰いだ。
「このまま逃げきれると思うなら……」
言葉はそこで止まり、ふっと笑みを浮かべる。
いや、笑ったのではない。
それは――かすかな、戦慄に似た、感情の波だった。
そして彼は、モニタを閉じた。
夜はまだ終わらない。
だが、街はもう――目を覚ましている。
◆ ◆ ◆
アリスです。もう一度だけ、言わせてください。
この街は、魔法でできた巨大な“気配の器”です。
誰かの呼吸、足音、迷い、あるいは――欲。
そのすべてを、静かに、でも確実に、記録し、学習し、反応する。
だからこれは始まりです。
でも……始まりにしては、あまりに静かすぎましたね。
火種はすでに、街の呼吸と同期しつつあります。
もう止まりませんよ――きっと。




