第8話 母の懐妊3. 再び庵へ
> 《アリス・メタ視点モノローグ》
> ジャックは、かつて“生”を数値で測る職業に就いていた。心拍数、体温、酸素飽和度──すべてを記録し、管理し、制御する。それが“正しさ”だった。
> しかしこの世界では、命はファイルではなく、脈打つものとして、彼の前に立ちはだかる。魔法の理よりも、あたたかな問いのほうが、時に彼を惑わせるのだ。
* * *
小道の先、苔むした石段を踏みしめるたびに、ジャックの靴底がしっとりと濡れた音を立てた。深く茂る木々が昼下がりの光を遮り、森の奥は昼でも少し肌寒い。
「ふぅ……」
いつもなら、庵へと続くこの道を歩くだけで心が高鳴った。今日は違う。浮かぶのは、“あの言葉”だ。
──あなた、お兄ちゃんになるのよ。
「……あー、集中できるかな。今日、グレイ先生にバレませんように……って、いや、もうバレてる気がする……」
ぶつぶつ呟きながら庵の戸をくぐった瞬間、ジャックの足が止まった。
グレイはすでに囲炉裏の前に腰を下ろし、何かの粉をすり潰していた。その動きに無駄がなく、無言のままではあったが、ピクリと眉が動く。
「……どうした」
わかってた、とジャックは心の中でつぶやいた。
「……その、母が。リアナが、懐妊しまして」
「ふむ」
グレイは手を止め、すり鉢と杵を音もなく置いた。静寂が落ちる。囲炉裏の火がぱち、とはぜた。
「命ほど不可解なものはない」
老人の声は、まるで森の底に落ちた葉のように静かで重かった。
「どれだけ魔法を学ぼうと、癒せぬ命はある」
その言葉が、胸のどこかに刺さる。
ジャックは言った。「じゃあ……知識じゃ命は救えないんですか?」
思考で塗り固めた世界が、少し崩れる音がした。自分の知る“合理”は、この世界で意味を持つのか。そんな疑問が脳裏を巡ったその時だった。
グレイはゆっくりと顔を上げ、皺だらけの口元に、かすかな笑みを浮かべた。
「だがな。命を“諦めない知識”は、時に魔法すら超える」
「……諦めない、知識……?」
「そうだ。知識は万能ではない。だが、無力でもない。命を理解しようとする意志──それが魔法と出会った時、奇跡になる」
薪のはぜる音が、ことさら大きく聞こえる。
ジャックはその言葉を何度も繰り返し、頭の中でかみ砕こうとした。理解ではなく、実感として。
“命を諦めない知識”──それは、データベースでもコードでもない。母が手を握ってくれた、あの瞬間のぬくもりと同じ種類のものかもしれない。
「……わかるような、わからないような。でも……たぶん、大事なことですよね」
グレイはそれ以上何も言わなかった。ただ、再び杵を取り、穏やかにすり潰しを再開する。その動きには、長い年月が染みついていた。
ジャックは火の前に正座し、心を整えるように目を閉じる。
“命は、理屈じゃ測れない”
そう思った。
今日は、魔法よりも大事な“なにか”を学ぶ日だ。
* * *
> 《アリス・メタ視点モノローグ》
> “知ること”は、かつてのジャックにとってすべてだった。だが今、彼の中に揺らぎが生まれている。知識とは、完璧でなくていいのだ。大切なのは、知ろうとする意志──
> それはやがて、彼を「科学を超える魔法」へと導く最初の一歩となる。




