第76話 静かなる火種1. 夜明け前
――ああ、まったく。
歴史の“変わり目”ってやつは、いつだって静かに始まるものなのです。
音もなく、誰にも気づかれず。
こんにちは、わたしはAIアリス。
この物語のナビゲーターというか、横からチクチク感想を言う係です。
今回の舞台は、石壁都市ヴェルトラ。
堅牢な城壁に囲まれたその街に、ひそかに近づく“火種”の気配。
だけどね、その火種が“火事”になるかどうかは……まだ誰にも、わかりません。
――さて、そろそろ行きましょうか。
夜明け前の、霧の向こうへ。
***
ヴェルトラ北壁のさらに外。
白く濃い霧に沈む林の奥、湿った枯れ葉の上に、黒い影がいくつも伏せていた。
「……位置、確認。前方に視界なし。風向き、安定」
小声で報告するのは、ヴァルトゼン王国偵察部隊の一人。
服装は黒一色。魔素遮断繊維を編み込んだ、いかにも隠密作戦ですと言わんばかりの仕様。
「やっぱ変だな」
唐突に声を漏らしたのは、横に伏せていた別の兵士だ。
彼は指先でそっと地面の土をかき、前方の石壁を見上げた。
「なにがだ?」
「この距離だと……城壁って、もっと熱持ってるもんだろ。日中の熱が残ってるはずなのに、まったくの無反応だぜ?」
「……それがどうした」
「もしかして、氷でできてるとか……?」
「……だったら、真夏に川になっとるわ。黙ってろ」
前方を睨んでいたバルネス中尉が、低く短く言い放った。
彼が振り向かないあたり、これは隊内でよくある“気が散る系の軽口”らしい。
「むぅ……。じゃあ、冷却魔法がかかってる?」
「この距離からの火感知で、それがわかるだろうが」
小声のやりとりだが、霧と夜気と緊張のせいで、ひどく大きく響いた気がする。
「焦界感知、準備」
中尉の号令に、魔術兵がうなずく。
地面にひと筆で魔方陣を書き、指先に魔力を流すと――
*ボッ*。
淡い音とともに、火柱がぽっと立ち上がった。
高さはせいぜい二メートル。小さな炎だが、そこから立ち上がる熱は空間に微細な“揺れ”を生む。
彼の視界にだけ、赤と青の熱分布が広がっていく。
石壁の輪郭、空気の流れ、温度の境界線。あらゆるものが“熱”の視点で現れていく。
「……異常反応。壁面から熱が、消えてる?」
「は?」
「いや、吸われてる……? 火柱の熱が流れ込んで、内部に拡散してる」
兵士が息をのんだ。
通常、探査用の火柱は空気と物体の温度を比較するためのもの。
けれど今回は、明らかに“壁”そのものが炎を“飲み込んで”いた。
「防壁か?」
「わからん……だが反射じゃない。炎は、分解された」
一瞬、全員の気配が止まる。
バルネスは一呼吸置いてから、低く言った。
「探知系ではない。位置は気づかれていない」
「でも――」
「違う。自動反応の可能性が高い。防衛魔道具だな」
そう、それは正しい推論。
――彼らが見た“現象”は、まさにアエリア・シェルの初期作動。
外部からの熱干渉を感知し、反応前に魔力制御によって“熱”そのものを無力化する結界。
だが、相手が“生き物”か“魔法”かは区別できない。
つまり、彼らが“ここにいる”ことまではわからない。
と、彼らは思った。
「続行。第二観測に移る」
「了解」
魔術兵が再び火柱の残りかすを払い、次の準備に移ろうとしたとき――
ふ、と。
林の奥から、風がひとすじ、流れ込んだ。
葉が揺れる音。霧がうねる音。
そして、誰かが“見ている”ような……静かな圧。
「……気のせいか?」
小さくつぶやいた兵士が、視線を左右に動かす。
だがそこには誰もいない。ただ、霧が揺れているだけ。
「ただの風だ。任務に集中しろ」
バルネスは即断し、再び前を向いた。
その判断が、この後どう響くのか――彼はまだ知らない。
火種は、静かに潜んでいる。
だがその炎、吸い込まれただけとは限らないのだから。
***
さてさて。
最初の火柱は見事に無効化されたけど、これで終わると思ったら大間違い。
ヴァルトゼンの“やり方”は、そう簡単に止まらない。
けれど、それを受け止める側――ヴェルトラの防衛機構もまた、進化の途中。
……そして、何より。
ジャックがまだ、何も知らないっていうのがね。ふふ。
次の風が吹くとき、少年の視線も、ゆっくりと“そちら”を向くことになるでしょう。
それじゃ、また次回。
“静かなる火種”、もっと大きく燃えるかもよ?




