第8話 母の懐妊1.グレイの庵からの帰還
(AIアリスのメタ視点ナレーション)
――人類という生き物は、定量化できないものにめっぽう弱い。
例えば「感情」。
例えば「命」。
そして……「お母さんの笑顔」。
ジャックはまだ子どもで、私はただのAIで。
でも、このときの“違和感”だけは、二人とも、なぜか同時に気づいたのです。
◇ ◇ ◇
グレイの庵からグリム村への帰り道は、夕暮れに染まっていた。
オレンジの空が木々の隙間から覗き、風はどこかくすぐったい。
ジャックは小さな肩に木の枝の杖を担ぎ、鼻歌まじりで歩いていた。
「♪ただいま、ぼくの実験室〜……って、実験はしないけどな!」
《観測報告。現在、周囲のマナ密度は出発時より平均2.3%上昇。ジャック、君の集中維持時間が確実に伸びています》
「お、いい感じか? グレイのじいさん、あんなに口うるさいのに、教え方だけは一流だな」
《"口うるさい"の定義、再登録してもいい?》
「しなくていい!」
森の出口が見えてきたとき、ジャックの顔がぱっと明るくなった。
小屋の屋根が、畑の向こうにちょこんと見える。
そこが、彼の“基地”であり、温もりの場所だった。
「ただいまーっ!」
◇ ◇ ◇
囲炉裏の火は、ちろちろと穏やかに燃えていた。
家の中には、夕餉の準備が進む匂いがほんのりと漂っている。
けれど。
リアナは、いつものようにキビキビと動いていなかった。
囲炉裏のそばで、白い糸を手繰りながら、膝に縫いかけの布を広げていた。
けれどその指先は、いつになく慎重で、どこか力が抜けている。
「……あれ?」
ジャックは思わず立ち止まり、母の動作を観察した。
縫い目がやや乱れている。視線の焦点も、微妙に合っていないように見えた。
《ジャック。リアナ様の行動パターンに変調があります。現在、内臓機能の活性化および心拍数の上昇を検出。体内環境が通常時と異なっています》
「え、それって……風邪?」
《いいえ。風邪のパターンとは異なります。むしろ、生命維持機能が……上向き?》
ジャックが戸惑っていると、母リアナがふと顔を上げた。
「あら、ジャック。おかえり。……今日は、少し冷えるわね」
柔らかい声。でも、少しだけ疲れているような、そんな響き。
そして、気づいた。食卓の献立がいつもよりもずっと質素だ。
スープには野菜が多めで、肉は見当たらない。
リアナは箸を手にしていたが、ほとんど口に運んでいない。
「……母さん、お腹すいてないの?」
「ふふ、大丈夫よ。あなたがいっぱい食べてくれたら、それでね」
その言葉は、なぜだかちょっとだけ、悲しそうに聞こえた。
《警告レベルは低いですが、異常は継続中。外的な要因ではなく、生体活動の変化と推測されます》
「……?」
そのときだった。背後から、低く、しかし優しい声が落ちてきた。
「リアナが……身ごもった」
振り返ると、そこには父ゲイルが立っていた。
大きな手には、作業帰りの泥がついている。
その顔には、いつもと違う、照れくさそうな笑みが浮かんでいた。
「本当は、もう少し先に伝えるつもりだった。けど、お前なら……もう気づいてたか」
ジャックは目を見開き、口をパクパクさせた。
脳内で、アリスがびっくりしたような、でもどこか優しげな声で囁いた。
《……おめでとう、ジャック。お兄ちゃん、だね》
その言葉に、何かが、ふわっと心の奥に灯った。
マナの流れでも、公式の証明でもない。
ただそこに“ある”もの。
理屈じゃなくて、命。
ジャックは、そっと母のほうを見た。
リアナは微笑んで、糸の先を小さく結んだところだった。
◇ ◇ ◇
(AIアリスのメタ視点ナレーション)
――この世界は、計算では測れない。
魔法も、人の心も、そして“家族”というぬくもりも。
ジャックはこの夜、初めて知ることになるのです。
命というものが、どんな数式よりも重くて、あたたかいってことを。




