第68話 結界の弓、都市の防壁8. 屋上から
> ……人の手で編まれた光が、空を覆う。
> それは、希望というにはあまりに無機質で、だが確かにあたたかい。
> 夜を迎えた都市の静寂に、それは、やさしく、しずかに、降りていた。
> ――アリスの観測ログより
ヴェルトラ中央塔の屋上は、昼間の喧噪が嘘みたいに静かだった。風がやわらかく吹いて、石畳を撫でる。その先には、薄く霞む夜空。いや――
「……もう、空じゃないな」
ジャックがぽつりとつぶやく。
空ではなく、光だった。
半球型の魔力構造体が、都市全体を覆っている。淡く青白い膜が、天蓋のように張り巡らされ、星々の明滅さえもやさしく包んでいた。
彼の隣では、リリィが肩越しにその光を見上げ、ふっと微笑む。
「きれいだね、これ。……でも、きれいなだけじゃ、ないんだよね」
その声に、ジャックは小さくうなずいた。
「これで……少しは安心できるかな」
「うん。でも、まだ全部じゃないよ。……ね?」
彼女は、まるで未来を知っているかのように――いや、今をちゃんと見ているからこそ、そう言ったのだろう。
明らかに“年齢詐称の風格”を漂わせながら。
リリィはリリィなりに、この光の下で何が守られ、何がまだ守られていないかを理解しているのだ。彼女が今もなお、こうして結界への魔力供給に協力していること自体が、その証だった。
*都市を包む《盾》は、確かに完成した。だが、すべての脅威を拒むには、まだ何かが足りない。*
「アリス、今の防御シェルに対する魔力圧・干渉耐性の実測値は?」
《安定稼働を確認。現在の出力であれば、都市規模の広域攻撃にも持続耐性は十分。ただし――》
「ただし?」
《――悪意を帯びた侵蝕型魔力に対する抵抗値は未確定です。感情干渉、錯乱誘導、浸透系の複合魔法には、引き続き対策が必要と判断されます》
やはりな、とジャックは息を吐いた。
確かに、スタンピードのような物理的・直接的な大災害には、この《アエリア・シェル》は鉄壁となる。けれど、魔法とはときに、“心”を媒介として変質する。
そしてその“変質”を感知することこそ、防衛の本質なのだ。
《防御とは常に、次の攻撃を想定するものです》
アリスの声が、屋上の静寂に響くように、ジャックの中で明滅した。
(……ああ、そうだな。ここで終わり、じゃない)
まだやるべきことがある。
たとえば、感情干渉への早期警戒システムの整備。
たとえば、悪意そのものを読み取る魔力パターンの抽出。
それらを、《マギア・アーク》と連動させれば――
「……次は、“門”だな」
彼の呟きに、リリィがきょとんとした顔をしてこちらを見た。
「お兄ちゃん、いま何か言った?」
「いや、ちょっと思いついたことがあって……ごめん、また宿題が増えたかも」
「ふふっ、それなら歓迎だよ。私、もっといっぱい手伝えるようになりたいから」
屈託のないその笑顔に、ジャックは思わず苦笑をこぼした。
(……ほんと、すごい子だな)
まだ九歳の少女が、自分の役割を理解して、進んで支えてくれている。それも、自分の“力”を誇るのではなく、使い方を考えて。
アエリア・シェルの光は、いまや都市の上空にまるく張られ、まるで“弓”のようにしなやかに湾曲している。
その放物線が、なにかを守ろうとする意志の象徴のようにも見えた。
そして都市は――ヴェルトラの人々は、その下で、ようやく静かな夜を迎えつつあった。
街路の灯りがぽつぽつと消え、家々の窓がまばらに明かりを残し、風が小さく衣をはためかせる。
まるで、「大丈夫だよ」と都市そのものが胸を撫で下ろしているような、そんな時間。
けれど、油断はしない。
するわけにはいかない。
だって――
「“外”の魔力は、ああ見えて、まだ様子をうかがってるからな……」
夜の帳に溶けかけるその言葉は、まるで誰かに伝えるでもなく、彼自身への確認だった。
未来の脅威はまだ、形を成してはいない。
だが、それを“防ぐ準備”だけは――常に、始まっていなければならないのだ。
そして、屋上に二人だけで立つその姿を、遠く下から見上げている誰かがいたとしても……きっと気づかれなかっただろう。
静かに、都市は眠りへと向かっていた。
防御の弓に包まれながら。
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> アリスです。ええ、またしても完璧な布陣を敷いた気になってる? ま、たしかに、アエリア・シェルは素晴らしい発明ですよ。リリィ様、あなたの供給制御は天才的です。
> ……でもね? 「防御がある」って、つまり「攻撃を想定してる」ってことなの。
>
> 魔法が心の波で揺らぐ世界。なら、次に来るのは何でしょうね。
> 「光の盾」の次は……そう、悪意を見抜く「門」。
> 次回――『第69話 マギア・アーク作戦始動』、きっとあなたの想像の一歩先をいくから。