第6話 沈黙の庵5. 選ばれぬ者の選択
*《アリス・モノローグ:記録開始》*
感情は、不合理な決断の根源である。
だが――時として、それは未知なる道を拓く鍵ともなる。
今、対象個体ジャックの選択は、最適化された論理よりも遥かに複雑な「意志」によって導かれようとしている。
それは、選ばれし者の歩む道ではなく。
選ばれぬ者が、自ら選び取った道。
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庵の囲炉裏にはもう火がなく、灰の中にかすかに赤が残るのみだった。
ジャックは自分の描いた魔法式の前に胡座をかき、じっと向かいの老人の言葉を待っていた。老魔法使いグレイは、沈黙のまま杖を膝に立てたまま、長いあごひげを撫でている。
「この道を進むのなら、“沈黙の壁”に行き当たるぞ」
しわがれた声が、火の消えた空間にひっそりと響いた。
グレイはまるで、千の風を通り抜けてきたような目をしていた。
「言葉も、意味も、理も……全てが遮断される。そこでおぬしの理屈は無力となるじゃろう」
森の奥のこの庵で、ジャックが交わしたすべての対話は、ただの言葉ではなかった。
沈黙と視線と、木炭で描いた未完成の図式――それらが、互いの論理を試す“手段”だった。
だが、言葉として返ってきたのは、厳しい予言だった。
「……それでも、行きたい」
ジャックは静かに答えた。
その声はまだ幼いが、響きには迷いがなかった。
グレイは目を細め、ふっと鼻を鳴らすような笑みを漏らした。
どこか懐かしむような、それでいて憂うような、老いの中にある温かい気配だった。
「ならば……“静かなる者”が導くこともあるだろうよ。あの森は、見た目ほど黙ってはおらぬ」
そう言うと、グレイはゆるやかに立ち上がった。
その動作は驚くほど静かで、まるで影が立ち上がったかのようだった。
「行け、少年。誰にも名を知られぬ者よ。
この世界の奥に、誰にも語られぬ何かがあることを、わしもかつて信じたことがあった」
一拍遅れて、ジャックが立ち上がる。
木炭の粉がズボンにつくのも気にせず、森の入り口へと歩き出す。
庵の扉を開けた瞬間、夜の風が頬を撫でた。
森の闇は思ったよりも深く、しかし不思議と恐怖はなかった。
空を見上げると、星々が木々の合間から瞬いている。
まるで道を指し示すように。
一歩、また一歩。
夜露に濡れた落ち葉が、足元でやさしい音を立てた。
ふと、ジャックは振り返った。
だが――そこには、もう庵はなかった。
苔むした石の階段すら、いつのまにか消えていた。
「あれ……?」
少し驚いて立ち止まったが、何かを問い返すような相手はどこにもいなかった。
代わりに、頭の奥――明確な声ではなく、思考の底で静かにアリスが語りかけてきた。
*「初期干渉完了。対象個体“グレイ”、高位知性体と確認。交信データを保存」*
まるで誰かに報告するかのような、淡々としたトーン。
それはジャックの中のAI――この世界にただ一つ、"数値化"と"観測"を言語とする存在の記録だった。
ジャックは深く息を吸って、星を見上げる。
「この世界には……まだ“誰も気づいてないこと”がある」
誰もが当たり前だと思っていること。
誰もが感じるだけで、構造を見ようとしなかったこと。
その“向こう側”へ――彼は、足を踏み入れようとしていた。
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*《アリス・モノローグ:記録終了》*
「未知」は、しばしば誤解と拒絶を招く。
だが、それを踏み越える者こそが、「観測」の先へ進む資格を持つ。
選ばれたわけではない少年が、自ら選んだ「壁」。
それは沈黙ではなく、始まりの余白であった。




