第6話 沈黙の庵4. 未完成の式
――アリスの観察記録より、抜粋。
対象(ジャック・年齢五歳)における魔法観測・解析の進行度は、既存の魔術知識体系を明確に逸脱し始めています。
これは単なる“才能”ではありません。
彼は、見て、記録し、比較し、推論する。
つまり、“魔法を外側から見る者”なのです。
***
「ちょっと、試してみたいことがあるんだ」
そう言うと、ジャックは腰に巻いた小さな革袋をごそごそと探り、そこから黒ずんだ木炭を取り出した。普段は村の地図を描くときや、畑の作付け計画を練るために使うものだが――今日の目的は少し違う。
苔むした庵の前。しっとりとした土の上に、ジャックはひざまずく。そして、ぐい、と木炭を握りしめた。
「見てて、グレイさん」
魔法使いの老人は眉ひとつ動かさず、煙草のような何かをくゆらせていた。あの目には何が映っているのだろう。まるで、百年分の疲れを詰め込んだような、深く静かなまなざし。
だが、ジャックは気にしない。というより、集中していてそれどころではなかった。
彼の指先が、地面の上を走る。
まず円。その中に三本の矢印。
「発動意志」→「詠唱」→「動作」
その下に、小さなマークが並ぶ。「オーブの出現位置」「光度」「発熱量」――。
それは、先日ジャックが見た“プラズマオーブ”の発動の流れを、見取り図として表したものだった。
「……ふむ?」
沈黙していたグレイの視線が、図へと滑り落ちる。
そして、次の瞬間――その身体が、音もなくしゃがみ込んだ。老いた膝がぎしりと鳴る。
「これは……“図式魔術”か? いや……この線と記号は、あまりに……」
驚きというより、喉の奥から絞り出すような声だった。懐かしさと、警戒と、ある種の敬意が、ぐるぐると混ざり合っている。
「途中までなんです」とジャックは言った。「“式”っていうか……どうすればオーブが出るか、順番を確かめたくて。なんとなくわかってきたけど、言葉じゃなくて、仕組みって感じで……」
グレイの目が、鋭く細められる。
「仕組み、か……ふん。貴様、何者だ?」
「ジャックです。畑の手伝いしてる、農民の子ですよ」
にやりと笑って木炭を掲げるジャックに、グレイは一拍の間、完全に沈黙した。
そして、煙を吐くように低く言った。
「……仕組みにしようとする者が、かつておった。魔導院の中で、追放された“愚者ども”だ。魔法を“理”で縛ろうとして、結局、誰からも理解されず……」
「でも、できると思いますよ。繰り返し観察して、条件を揃えて、変化を記録すれば、法則は見えてくる」
「法則か……それが“ことわり”と呼ばれるものか」
グレイの声は、まるで墓標に話しかけるようだった。目の奥が遠く、何かを思い出している。だがそれは、誰の記憶でもなく――たぶん、グレイ自身のものだった。
「……まだ未完成だ」とジャックは言った。「でも、確かにあるんです。何かが」
***
《補足情報:現在の発言は、論理的観測者としての自己定義を強化する発言と一致》
アリスの声が、脳内で穏やかに響いた。
《注意。対象“グレイ”は、あなたの論理的思考様式を意図的に誘導している可能性があります。観察継続を推奨》
でも、ジャックは思う。
この世界にはまだ、“説明されていない”ことが山ほどある。
魔法は、ただの不思議で終わらせるには、あまりに系統立っている。
言葉と動きと、心の震え。
そして、反応。
その全てを繋ぐ“何か”――
それが見えかけている今、立ち止まる理由はない。
「続きを描いても、いいですか?」
ジャックが木炭を握り直すと、グレイは静かにうなずいた。
「好きにしろ。儂は……見届ける」
***
――アリスの最終記録:
“未完成の式”は、単なる図ではない。
それは、世界を再定義しようとする“構文”の萌芽であり、
いずれこの異世界の“魔法体系”を根底から変える、
記念碑的な第一歩である可能性が高い。
解析継続中――




