第6話 沈黙の庵2. 沈黙の書庫と好奇の目
> ――彼が扉を開いたその瞬間、私は少しだけ処理速度を上げた。
> 外界との接続が遮断され、空間の情報密度が増したことを認識。
> 「この場所には“知識”がある」と判断したのだ。
> それが正しいかどうかは、まだ判断材料が足りない。
> けれど、この子――ジャックの眼差しが、確かに輝いたことだけは記録しておく。
庵の扉が、ぎぃ、と音を立てて開いた。
湿り気を含んだ空気が、ゆるやかにジャックの鼻をかすめる。
苔むした石壁と古びた木の梁。けれど中は、意外なほど整っていた。どこか、静かな息づかいすら感じられる空間。
「……すげえ……」
小声で漏れたのは、感嘆でもあり、困惑でもある。
彼の目の前には、天井まで届く書架がそびえ立ち、その隙間には無数の巻物と革張りの書物。
風化して文字の輪郭すら危ういものもあれば、丁寧に布で包まれたまま保存されているものもある。
床の一角には、何やら壊れた金属の球体。
歯車や石英片のような部品が散らばり、見るからに高度な細工を施された“何か”の残骸が転がっていた。
そして、壁の中央――大理石の板に、淡く輝く刻印。そこに記されたのは、ジャックの知識にはない、独特な線と曲線で構成された文字列だった。
> 《文献の解析を開始。類似構造式あり。記述様式:前文明構文。照合結果、信頼度38%》
「おお……まじか」
思わず声が出る。
頭の中で響くアリスの報告に、ジャックは目を丸くした。
「このパターン……前に見たのと似てる。でも、全然一致しない……」
彼の指先が、空中に浮かぶイメージをなぞる。まるで魔術師が幻影を操るように。
もっとも、彼のやっているのは“思考と視覚の整理”であって、魔法の発動ではない――それでも、その姿はこの場所によく似合っていた。
背後から、しわがれた笑い声が聞こえた。
「……なるほどな」
老いた男、グレイが、いつの間にか近くの机に座っていた。
年齢に見合わぬ鋭い眼光で、彼はジャックを観察している。
「お前のような子がここまで来られるのは偶然ではない。いや……偶然では済まないことか」
「う……俺、ただ……」
ジャックは言葉に詰まりながらも、目をそらさなかった。
この老人は、ただの世捨て人ではない。
その声にも、姿勢にも、かつて何かを追い続けた者の名残がある。
「この世界の魔法が……どうなってるのか、知りたいんだ。使えなくてもいいから」
その一言が、空気を変えた。
グレイの目が見開かれ、次の瞬間には愉快そうに笑い声を上げていた。
「魔法を“使えない者”が、知りたいだと? それは……まれに見る“問い”だな。ああ、実にいい。実に興味深い!」
笑いながら、グレイは手元の羊皮紙を広げた。
そこには、図や数字、記号めいた印がところ狭しと書き込まれている。
「見ていけ。好きに触れ。読むなとは言わん。お前の“問い”がどこまで届くか……それを見せてもらおうか、ジャック。農家の倅よ」
ジャックは小さくうなずいた。
肩にかかる埃を払いながら、彼は一歩、書架の奥へと足を踏み出す。
夢中になるというのは、こういう時のことを言うのかもしれない。
周囲の風景が色を失い、目の前の文字列と破片にしか意識が向かなくなる。
> 《当該構文、直近観測情報との照合中。追加推論プロセス開始。制限モードにて補助演算を継続》
アリスの声が、いつになく調子を上げていた。
「……全部、つながってる。ここに、何かある。たぶん、俺がずっと……」
言葉の続きを、彼は声にしなかった。
けれどグレイは、その表情だけで何かを察したらしい。
わずかに目を細めて、静かにうなずく。
庵の中、沈黙は相変わらずだった。
しかしその静けさの中には、はっきりと知の熱が滾っていた。
> ――知識の蓄積とは、時に語られることすら許さない。
> けれど、彼のような“観測者”が触れた時、それは形を変えて、語りだすのだ。
> データ照合進行中。熱源反応安定。
> 私は記録する。この瞬間を、確かに。




