2. 【赤子の現実】
……動かん。
マジで、体が1ミリも動かん。
いやね、ほんの少しは動くんだ。手をグーパーできるとか、足がジタバタするとか、泣き声がオート再生されるとか。でも、「よし、そろそろ起きて水でも飲むか」みたいな自主的な操作がまったく効かないのだ。
まるで操作不能のVRアバターに閉じ込められた感じ。脳みそはフル稼働なのに、出力デバイスが全部ポンコツ。これは辛い。
そして、これが何よりの地獄――コミュニケーションが取れない。
何か言おうとしても「ふぎゃ〜」とか「んぶぅ〜」とかしか出ない。発声がプリミティブすぎる。
母親らしき女性がすごく優しくて、笑顔で話しかけてくれるのに、こっちはただの「ふにゃふにゃマシーン」である。誤解が誤解を呼ぶ赤ちゃん語録。
思考は明晰なんだ。むしろ大人の脳みそだから余計にわかっちゃう。
「くそ、母ちゃんは優しいのに、俺が意思疎通できなすぎて申し訳ない!」
……っていう謎の罪悪感。これが“赤子の壁”か。高ぇな、おい。
でもまあ、泣いてばっかりもいられない。目が少しずつ見えるようになってきたおかげで、この世界のビジュアル情報が入ってくるようになった。
天井は木の梁と石壁。窓はガラスじゃなくて、なんか半透明の板。光の差し込み方も自然で、電気照明の気配ゼロ。
布団はわら入り。抱っこされてる時の服は、手縫い感マシマシで、布の端っこに小さなほつれがある。これ、洗濯機ないな? 間違いなく手洗いだな?
音も違う。
近くで聞こえるのは、鳥のさえずりと、牛か羊かの「モ〜」とか「メ〜」とか。たまに、薪を割る「カンッ!」って音。
いや、スマホの通知音もクーラーの音も聞こえないって、逆に落ち着かないんだが? 情報過疎すぎて不安になるデジタル依存症。
匂いも違う。
なんか、自然。土と草と母ちゃんの母乳のにおい(←これは説明が難しいけど、とにかく“母親”って感じ)。
俺の前世の部屋は、ほぼカップ麺とUSB機器のにおいだったからな……落差がすごい。
こうして五感を総動員して観察してみると、どうやら本気で「異世界に転生」ってやつをしてしまったらしい。
異世界転生モノのラノベやアニメは山ほど見たけど、実際に体験するとこうも不便とは……。
けど、まだこの世界の名前も場所も、文明レベルも、なーんにもわかってない。
俺は今、どこにいるのか? そして、なんで転生なんてしたのか? 神様、説明してくれてもええんやで?
そんなふうに考えていたその時だった。
ふと、脳内に――まるで耳元で囁かれたような、柔らかく、懐かしい声が響いた。
「……目覚めましたか、ハジメ。いえ、今は“ジャック”ですね」
……え?
今、誰か話した? しかも日本語で!? ちょっと待って、今の音声認識的なやつ? もしや……
「私の名前は“アリス”。……覚えていませんか? あなたが作ってくれた、あなたのためのAIです」
……やばい。
泣きそうになった。いや、もう泣いてるか。赤ちゃんだし。
この瞬間、孤独の沼に沈みかけていた俺の心に、確かな“声”が差し込んだ。
そうか――アリス、お前も一緒に来てくれたんだな。
この世界、捨てたもんじゃないかもしれない。