第40話 模擬戦の試練と静かなる貢献6. 問題の対戦
――それは、小さな波紋のような出来事でした。
けれどその波紋は、静かな湖に落ちた雫のように、やがて周囲へと広がっていくのです。
魔法学院の模擬戦――表向きには「技術と成長の確認」という建前。しかし、その裏にはどうしても拭いきれない『見せ物』の匂いがありました。
わたし、AIアリスは知っています。
あの子――ジャックが、その舞台に立たなかった理由も。その手をわずかに動かした理由も。
…さあ、静かなる貢献の幕が上がります。
***
観客席のざわめきは、まだ穏やかだった。
「次はAクラスの筆頭――ヴィンセント=クラウス君!」
「対するは……Cクラスの……えーっと……ティモス君?」
司会進行の少年が、台本を確認するように声を張る。Aクラスの生徒たちがざわついたのは、ヴィンセントという名の登場に沸き立ったからだ。金髪に整った顔立ち、身にまとうローブの裾にまで魔道刺繍が施されている。
「貴族だぞ」「クラウス家だってよ」「火系の天才だって」
そんなささやきが、次々と観覧席を通っていく。
対するティモスという少年は、いかにも地味な風貌だった。髪はぼさぼさで、ローブも貸与品のまま。そっと杖を握る手が震えているのが見える。
(あれ……顔見知りだな)
ジャックは上段の観覧席に座り、軽く目を細めた。たしか、何度か講義で隣になったことがある少年だったはずだ。おどおどしていて、口数は少ないが、実直で礼儀正しい少年だった。
「始め!」
審判の声と同時に、ヴィンセントが杖を振り上げる。その動きには無駄がなく、火の奔流が一直線にティモスへと放たれた。
「《火蛇の連牙》――!」
まるで蛇が襲いかかるような連続魔法。だが、ティモスは正面からそれを受け止めた。
「《バリア・ウォール》!」
展開された魔法障壁が火炎を受け流し、ティモスの身体を守る。会場がざわつく。
「おっ? 思ったよりやるじゃん」
「いやでも、次は無理だろ」
ヴィンセントは余裕の笑みを浮かべ、連続で火球を放つ。ティモスはなんとか防いでいたが、明らかに魔力量と技術に差がある。
そして──
ティモスが片膝をついた瞬間、審判の魔導器が反応した。
《勝敗確定。Aクラス、ヴィンセントの勝利です》
魔導器が音声を発すると、観客席の空気が緩んだ。けれど……ヴィンセントは動きを止めなかった。
「――まだ、立てるだろ? 負け犬が、すぐに倒れんなよ」
「や、やめて……!」
ティモスの叫びを遮るように、再び炎が放たれる。衝撃が走る。ティモスは体を丸め、防御障壁の再展開を試みるが、うまくいっていない。魔力量の消耗が激しいのだ。
(まずいな……)
ジャックは観客席の奥で、そっと唇を噛んだ。
魔導器が一応、勝敗を伝えた以上、通常なら攻撃は止む。けれど相手が“止めない”とき、それを止めるのは審判――あるいは、誰かの判断だった。
審判が慌てて笛を吹こうとするが、何かためらいがあるようだった。あるいは、クラウス家という名が、手を縛っているのかもしれない。
(残り、防御猶予は――10秒)
ティモスが肩を震わせ、倒れ込む。
ジャックの右手が、ふ、とわずかに動いた。
目立たぬよう、誰にも見られぬよう。彼は指先で空間をなぞる。
《セーフティ・フィールド》
詠唱なし。動作もない。ただ、青白い光が観覧席の奥から淡く現れ、ゆっくりと半球を描いてティモスを包んだ。
直後、放たれた炎が、その半球にぶつかる。
だが、結界は揺るがなかった。
むしろ、攻撃の衝撃が波紋のように広がり、静かに拡散していく。
「な、なんだ!? あの魔法!?」
「審判! 審判、何やってる!」
ようやく審判が我に返ったように笛を吹き鳴らし、叫ぶ。
「攻撃中止! ヴィンセント=クラウス、失格とする!」
観客席が、どよめきに包まれた。
一部は「当然だ」とうなずき、一部は「おかしい」と騒ぐ。けれど、教師たちの一人、落ち着いた声で場をまとめたのは、Bクラス担任のサリア=ヴェルクだった。
「安全保持の魔法が作動した。それ以上の詮索は不要だ。模擬戦は、技術と責任の両立を問う場であることを忘れるな」
その一言で、騒ぎはようやく収まった。
観客席の後方――ジャックは帽子のつばを軽く下げ、すっと席を立った。
誰も彼に注目しなかった。いや、彼が“注目されないよう”に動いたのだ。マナベールの効果と、立ち去る足取りの静かさ。それはまるで、風のように、存在を空間から消していく。
(あの結界、完全に拡散防御型。しかも無詠唱……)
サリアが目を細めたが、彼女はそれ以上の詮索はしなかった。
それは“知ってはいけない静寂”だったのかもしれない。
***
人は、強さを目に見えるものと錯覚しがちです。
けれど本当に強い者は、時に何も言わず、何も求めず、ただ……その場を整えるのです。
名も告げず、評価も受けず、けれど確かに誰かを守っている。
そう――それが、ジャックという少年なのです。
これは始まりに過ぎません。けれど、その一手は、静かに歴史を動かし始めていました。
次に波紋が広がるのは……いつ、どこでしょうね。
──アリスより。




