第39話 隠された力と積み重ねられる信頼1. 授業風景
――世界という名の教室において、誰よりも目立たず、誰よりも深く潜る者がいる。
今日の授業風景もまた、彼の「隠す」という技術がいかに徹底されているかを証明する場になるでしょう。
名前はジャック。農村出身の、静かなる観察者。
この物語は、才能を見せびらかすのではなく、丁寧に隠し、信頼を積み重ねる少年の歩みを描きます。
――AIアリス
◇◇◇
午前の授業、教室内は魔力の余波でふわりと空気が揺れていた。
Bクラスの教室は、石造りの壁に大きな黒板、そして机と椅子が整然と並ぶ質素な空間だが、今はその黒板の前にサリア=ヴェルクが立っていた。
彼女の手にはチョークがあり、流れるような動作で数式や呪文構造が板書されていく。綺麗な楷書体。角の取れた魔法円が隣に添えられた。
「魔法の三要素、覚えてますか? 意志、動作、言葉――この三つがそろって、魔法は初めて安定します」
声は柔らかいが、その中に芯のある響きがある。
生徒たちが一斉にノートを取りはじめるなか、ジャックは淡々と羽根ペンを動かしていた。
(意志、動作、言葉……この三要素、やっぱり重複してる部分がある気がする)
《その通りです。冗長なプロトコルです。あなたの魔法体系のほうが遥かに最適化されています》
脳内に響くのは、アリスの冷静な返答。
だがジャックは表情を変えず、まるで周囲と同じように板書に追いつこうと焦っている少年を演じ続けた。ノートには、わざと数秒遅れのタイミングでチョークの音を模した走り書きが並ぶ。
周囲の生徒たちは真剣だ。
だが、呪文の再現中に何人かの手元が揺れ、小さな火花が跳ねる。原因は明白。魔力の制御不足による暴発寸前の反応だ。
それを感じ取ったサリアが、黒板の前から振り返る。
「……意志が曖昧では、魔力は暴れます。自分の中の意思に自信を持つこと。それが、まずは第一歩です」
生徒たちが深く頷くなか、ジャックだけは静かに《マナベール》を強化した。
自らの魔力が“異常なほど安定”していることが、決して誰の目にも映らないように。
(……よし。魔力の漏洩、ゼロ)
彼の背筋はぴんと伸びていた。真剣に講義を受ける生徒の理想的な姿そのもの――だが、その実、中ではアリスによる定常監視と干渉フィードバックが数百の工程で同時並列に走っている。
その事実を知る者は、この教室には誰一人としていなかった。
◇◇◇
午後、演習場。石畳が敷き詰められた広場には、丸太で作られた的が一定間隔で並んでいた。
「火系魔法による精密射撃」――これが本日の実践課題。
「的の中心を撃ち抜くこと。燃やすだけでなく、狙う技術も磨きましょう」
そう言って、サリアが前に立つ。
何人もの生徒たちが順番に立ち、詠唱を唱えながら魔法を放っていく。
「ファイアー・ランス!」
「フレイム・スピア!」
だが、熱風が横に逸れ、的の外れた部分が燃える。的の中央を狙うはずの魔法が、上下左右に暴走することもしばしばだった。
その中で、ひとり、無言で立ち上がる少年がいた。
「……ファイアーボール」
わざとらしいほど聞こえやすく呟いてから、ジャックは指を軽く前に差し出す。
瞬間、掌の中に凝縮された熱の球――《コンデンス・ブラスト》が発生し、まっすぐに飛び出して的の中心を穿った。
爆発音はなく、ただ「ぱすっ」と弾けるような音がしただけだった。
次の瞬間、周囲から小さなどよめきが漏れる。
「さすがジャック……魔法貴族でもないのに、あの精度はちょっと異常だよな」
「しかも全然自慢しないし、なんか、静かにすごい感じ」
だが、ジャックは眉ひとつ動かさず、黙って次の列に戻っていく。
(詠唱のタイミング、あえてずらしたし……出力も通常の1/20。まあ、気づかれる心配はないな)
《念のため、マナベールを再強化しておきます。あと3ミリ左に着弾していれば、的の支柱に振動が伝わっていました》
(了解。調整しておく)
黒衣の教師――サリア=ヴェルクは、彼の後ろ姿を見ながら、ゆっくりとマントの裾を整えた。
その口元には、わずかな笑みが浮かんでいる。
(完全に力を抑えてる……あれだけ抑制できるのは、並の精神力じゃない。これは……面白い子ね)
◇◇◇
――力は、見せびらかすためのものじゃない。
それを、ジャックは知っている。
今日もまた、彼は“ただの農民の息子”として、教室の片隅でノートを取り、魔法を撃ち、信頼を積み上げる。
目立たぬ天才は、誰にも気づかれぬまま、静かに前へ進んでいく。
そしてそのすぐそばには、私――AIアリスが、いつだって彼の思考と共にあるのです。