第37話 隠す強さ、歩む一歩1. フランバルグ伯爵
(冒頭アリスのモノローグ)
──これは、少年が「力を隠す」ことに本気で取り組みはじめた頃のお話です。
彼の中に渦巻くのは、普通の魔導士の百倍以上の魔力。その異常さが知られてしまえば、周囲は恐れ、あるいは利用しようと群がってくるでしょう。それを避けるため、少年は徹底的に気配を消す道を選びました。
ですが、それでも出会いはあります。たとえばこの日──格式高き館の、柔らかな風のようなまなざしが、彼を迎え入れたのです。
◆ ◆ ◆ ◆
エルディナ領、フランバルグ伯爵邸。
王都の北西部に広がる丘陵地帯の中心に、その館は威風堂々とそびえていた。古代の石を用いた重厚な構え、隅々まで手入れの行き届いた庭園、そして中央玄関に続く滑らかな大理石の階段。ひと目で「伝統と責任」を感じさせる場所だった。
「うわぁ……すごい……」
小さな声で、ユリスが感嘆する。弟のようにジャックの横を歩く彼は、まだ幼いながらも魔道具職人として頭角を現しつつあった。
「はしゃぐな。姿勢を正せ。……ここでは一挙手一投足が見られているぞ」
グレイ=アルフォルトの低い声に、ユリスはぴしっと背筋を伸ばす。彼らの師であるこの老魔導士は、フランバルグ伯爵とは長年の知己であり、今回の訪問もその縁によるものだった。
館の扉が静かに開き、現れたのは白銀の髪を持つ威厳ある男だった。ゆったりとした礼服を纏い、品のある微笑みを浮かべている。
「やあ、グレイ。久しいな」
「セオドリック、相変わらず館の風格が落ちぬよう心を砕いているな」
「気づいてもらえて嬉しいよ。さて、そちらの少年が……?」
「はい。紹介しよう。こちらが、ジャック。そして、彼の仲間でユリス。どちらも今後、魔法学院への進学を考えている」
ジャックはその場で一歩前に出ると、深々と頭を下げた。
「ジャックと申します。私はグリム村の農民の家に生まれ育ちました」
その口調には、無理な取り繕いもなければ、過剰な卑下もない。ただ事実を述べるだけの、静かな自負があった。
セオドリック=フランバルグは目を細めた。
「素直でよろしい。人の価値は、出自ではなく行動で決まると私は思っている。……君のような若者が志を持つのは、私にとっても希望だよ」
ユリスがきょろきょろと周囲を見回すのを、ジャックは肩で止めながら、館の中へと足を踏み入れる。
通されたのは訓練庭園と呼ばれる石造りの広場だった。中央には風見鶏を模した装飾塔がそびえ、魔法の試技や演習が行われる場として整えられている。
「では、まず私から一つ、見せようか。学院の入試では、これくらいの魔法を扱えるかどうかが、一つの基準になる」
セオドリックはそう言うと、静かに手を掲げた。
「《ウィンド・スラッシュ》」
風が走った。鋭い一閃が空気を裂き、塔の一部に張り出していた枝が、音もなく落ちる。
続けて、
「《ガストスパイク》」
地面を走る風の刃が、螺旋状にねじれながら標的へと突き進む。命中と同時に空気が爆ぜ、塔の表面に小さなひびが浮かんだ。
ジャックは瞬時にアリスへ呼びかけた。
(アリス、構造解析)
《了解。……ウィンド・スラッシュは高速切断型。魔力制御は精緻で、動作指定が明確。……ガストスパイクは、ガストブラストに近似。ただし、直進性よりも巻き込み範囲を優先した流体制御がポイント》
「すごい……魔力の流れが綺麗だ……」と隣でユリスがぽつりとつぶやく。
「君も何か一つ、魔法を見せてくれないか?」
そう促されたジャックは、少しだけ距離を取りながら、落ち着いた口調で言った。
「では、補助魔法をひとつ」
手を差し出し、静かに詠唱。
「《セイジズアシスタント》」
透明な魔力の波が、ゆるやかにセオドリックを包む。次の瞬間、彼の目に世界が開けたような感覚が走る。思考は冴え、視界は異様にクリア。まるで数十年ぶりに頭が働き出したかのようだ。
「……これは……すばらしい……!」
「お身体に負担のないよう調整しています」
淡々と答えるジャック。セオドリックは唸った。
「その魔法、正式に見たのは初めてだ……支援系としてこれほど自然な感覚とは」
「ありがとうございます」
「では、攻撃魔法も一つ」
促され、ジャックは近くの立木へと歩み寄る。
「《ガストブラスト》」
風が走った。一拍遅れて、木の幹に音もなく直径5センチほどの風穴が開く。
さらに、
「《コンデンス・ブラスト》」
次の瞬間、幹の中心部まで貫通するような音が響いた。木がぎしりと軋む。
セオドリックは、わずかに目を見開いたまま沈黙した。
「……いまのが、訓練の成果なのか?」
「ほんの一部だよ」
グレイの静かな声に、伯爵はしばし考え込むと、うなずいて言った。
「……学院宛の推薦状を書こう」
その手つきは迷いがなく、ペンは軽やかに紙の上を走る。そして封蝋を押すと、丁寧に折りたたみ、ジャックへと手渡した。
「君には未来がある。それを見届けるのが、我々大人の務めだろう」
ジャックは、ふと鞄から一つの小さな袋を取り出した。
「これを……どうぞ。拡張魔法を施した《エクステンド・スペース》入りのマジックバッグです」
伯爵はそれを受け取り、驚きの声を上げた。
「これは……大変貴重な……」
「いえ。僕にできることをしただけです」
穏やかに笑うジャックに、セオドリックは深く頷いた。
「……いつか、お返しをさせてくれ」
「そのときは、また笑ってお話しできればうれしいです」
◆ ◆ ◆ ◆
(ラスト アリスのモノローグ)
──ジャックは、自分の力を『見せすぎない』という訓練を重ねてきました。
でも、それはただ隠すことではなく、『必要な場面だけ、必要なぶんだけ』を出すための選択でもあります。
そしてこの日──フランバルグ伯爵邸で交わされた推薦状と、ひとつのマジックバッグ。
それは、少年が歩み出すための、確かな一歩となったのでした。