第36話 開かれし門、そして王都へ4. カオス・ゲート
(アリスの語り)
——今宵、少年は門を開く。
その身に満ち満ちた力を誰にも悟らせぬよう、ひたすら抑えながら。
けれど、その扉の先にあるものは、彼の未来に続いていた。
王都エリューディアへの第一歩。
それは静かに、しかし確かに、世界を変える予兆となる——
◇ ◇ ◇
夜風が優しく吹き抜ける、月明かりの訓練場。空にはまるい月が浮かび、仄かな光が木々の影を地に落とす。グレイの庵から離れたこの小さな空間は、ジャックの「特訓の庭」としてすっかり馴染んでいた。
少年、ジャックは息を吸い込み、軽く肩を回す。衣服の内に隠された膨大な魔力量は、今夜も一切の漏れを許さず、ぴたりと沈黙を守っていた。
——これでいい。村の外では、目立たず、見せず、存在感を消す。それが、僕の“安全設計”。
彼は、指先をすっと前方へ向けた。
「《ディスタンス・ビジョン》——探査開始、方向は南南西、座標指定、地平線上……」
視界が広がる。まるで透明な望遠鏡が眼前に生まれたかのように、遠く離れた景色が、緻密な描写で脳内に浮かぶ。
山を越え、森を抜け、続く草原。そのはるか彼方、霞んだ白い線が地平にうっすらと浮かんでいる。
「いた……」
ジャックは小さく呟くと、今度は右手を胸にあて、そっと魔力を編む。
「《パーセプション・ホールド》……対象座標、固定。揺れなし、ぶれなし、ズレなし……よし」
次の瞬間、彼の足元の空間がわずかにうねった。空気の密度が変わり、世界が“軋む”音がする。
ジャックは深く息を吸った。
「《カオス・ゲート》」
詠唱とともに、空間がまるで絹のように滑らかに裂け、そこに黒い“穴”が開いた。だが、それはただの闇ではなかった。星の光をも飲み込むような、静謐な深淵。そしてその奥には、揺れる空間の歪み。
この現象を目の当たりにするたび、ジャック自身も毎度少しだけ肝が冷える。空間そのものを無理やり繋ぎ換える——この「カオス・ゲート」は、あまりにも不確かで、あまりにも不安定。けれど今夜は違った。
ゆがみは安定し、ゲートは静かに、確かに、そこに存在している。
「……成功だ」
ぽつりと呟いたその瞬間、背後から声がした。
「上出来だな、ジャック」
振り返ると、グレイ=アルフォルトが、月影に溶けるように立っていた。いつものくせで、気配を完全に消している。相変わらず、忍者みたいだ。
「グレイ師匠……見てたんですか」
「そりゃあな。おまえがあれを開ける日は、目を離せんよ」
師匠はふっと笑ってから、指先で南を示した。
「ジャック。……王都エリューディアを、視てみなさい」
ジャックは頷き、再度を発動。座標を再調整し、意識を彼方へと飛ばす。先ほどよりも、さらに遠くへ。
そして。
視界の中に、それはあった。
「……白い……石の城壁。金色の……尖塔」
遠く、遠く。だが確かに、そこに存在する。まばゆい光を反射するような、美しく整った都市の輪郭。広大な王都の一部が、月光を浴びて淡く輝いていた。
「……これが……王都……」
「エリューディア。王の都、学びの都、魔法の都——さまざまな顔を持つ場所だ。おまえが進む道に、避けては通れぬ場所になる」
グレイの声に、わずかな重みがあった。
「けれど、焦るな。まずは……その手前の宿場町を視ておくんだ」
ジャックは頷き、座標を少し手前にずらす。
そこに見えたのは、王都へ至る街道沿いに築かれた、小さな宿場町。屋根の連なり、中央の広場、往来する荷馬車……にぎやかさと安全性が両立している印象を受けた。
「ここなら、転移も……安全にできそうです」
「よし、それでいい」
グレイはそう言って、手をポンと叩いた。
「さて。転移の練習はこのくらいにしておこう。……それより、ユリスが面白いものを作ってたぞ。どうやら、また新しい魔道具に夢中らしい」
「えっ、今度は何ですか?」
「たしか、『ゴ・ミクス』だったか……魔石を並べる遊びのようだが、五つ並ぶと光るらしい。しかも、自動で『勝った!』と音が出るんだと」
「……それ、完全に僕のパクってますよね……」
ジャックは笑いながら、ゲートをゆっくり閉じた。
まだまだ練習は必要だが、それでも——
今夜、自分は確かに「門」を開けたのだ。
◇ ◇ ◇
(アリスの語り)
——“知りすぎない”ことは、この世界で生きる術。
けれど、“見なければ始まらない”のもまた、真実。
ジャックの歩みは、やがてエリューディアを巻き込み、
そして世界の在り方さえ揺らがせていく——
……その最初の一歩が、今、踏み出された。