第32話 砂に沈む影2. 魔物遭遇
――これは、まだ誰にも知られていない記録。
砂と風と、影とに覆われた夜の旅路にて。
誰が英雄かはまだ決まっていない。
だが、このとき確かに、小さな誰かの選択が、一つの“形”になりはじめたのだ。
……記録補助AIアリス、観測ログ開始。
◇ ◇ ◇
砂漠の夜は、静寂の中に潜む。星すら凍りつくような冷気が、旅人たちの体温をじわりと奪っていく。
ビーストトレイルの面々は、それぞれの小さなテントに分かれて仮眠を取っていた。魔法の遮熱幕が砂塵を防ぎ、かすかな篝火が風に揺れていた。
そのとき、ジャックはふと目を開けた。
「……今の、振動」
わずかに地面が揺れた。けれど誰も気づいていない。ユリスの眠る姿が、影に溶け込むように丸まっている。
ジャックはゆっくりと体を起こすと、そっと手をかざし、《ディスタンス・ビジョン》を発動。
透過視界の中、視線は地中を貫き――そして、あらわになった。
『砂層第三層、反応あり。直径推定七メルト。動きは直進、接近中。』
ジャックの脳内に、アリスの声が鋭く響いた。
(これは……サンドワームだ)
小さく息を吸い、吐く。魔力の流れを徹底的に絞り、周囲に気配を漏らさぬようにしながら、隣でまどろむユリスを軽く突いた。
「……ユリス。起きて」
「ん、んぅ……? ジャック……?」
「静かに。すぐに《セイジズアシスタント》を五人に。小さく、目立たせずに」
ユリスは一瞬だけ眠気を払いのけるように瞬き、そしてすぐに理解したように頷いた。
掌にかすかな光を宿すと、呟くように唱える。
「《セイジズアシスタント》……」
光はほんのりと波紋のように広がり、ビーストトレイルの五人に届いた。目に見えぬ庇護と集中の力が、静かに彼らを包む。
そして――
地面が、裂けた。
砂の嵐と共に現れた巨大な口。まるで大地そのものが開いたような威容。
サンドワーム。目はなく、ただ音と振動に反応する。獲物を見つけ、飲み込むだけの“飢え”。
「来たっ!」サラが声を上げるよりも早く、ガルドが大剣を振り上げて突っ込んだ。
サンドワームの体表を裂き、その隙を突いて、ディクスが跳躍。ミナが空気を震わせるように火の魔法を撃ち、バローが即座に支援物資を投げ渡す。
その連携は、まるで長年の舞踏のようだった。
ジャックは、右手に魔力を込めていた。《ガストブラスト》。
だが、それを――静かに解いた。
(……大丈夫だ。今は、まだ出る場面じゃない)
◇ ◇ ◇
陽が昇り始めた。
空が金色に染まり、砂丘がまるで無限の波のようにきらめいていた。
その中を、ジャックたちは静かに進む。風の音だけが耳に残る。
『魔力感知、作動』
アリスの声がした瞬間、ジャックは立ち止まった。
(これは……?)
「前方、左右に魔力反応。拡散型。待ち伏せの可能性が高いわ」
ジャックは軽く手を振り、ユリスに合図した。
「今だ。防御と補助、同時に」
ユリスが小さく呟いた。「《セーフティ・フィールド》、そして……《セイジズアシスタント》」
五人に再び、魔法の支援が走る。かすかな光の膜が風に揺れ、次の瞬間――
砂を割って、二体の魔物が躍り出た。
左からは、鋭い大鎌のような爪を構えた《デザートクラブ》。
右からは、毒針を掲げた《デザートスコーピオン》。
挟撃。
ビーストトレイルが一瞬だけ動きを止めた――その刹那。
ジャックは岩陰から素早く詠唱。「《ファントムケージ》」
音もなく、スコーピオンの脚が地面に固定されたように動きを止めた。透明な檻。幻影の牢。
「今よ!」
サラが叫び、混乱から即座に態勢を立て直す。ディクスとミナがスコーピオンに突進。ガルドがクラブの鋏を防ぎ、バローが煙幕を展開。
戦いは数分で終わった。
ビーストトレイルの連携は、砂の中でも乱れなかった。
ジャックは少しだけ、ふっと息をついた。誰にも気づかれず。
◇ ◇ ◇
――旅は、時に気づかぬほどに誰かの輪郭を変えてゆく。
小さな魔法が仲間に届き、沈黙の意志が戦局を動かす。
名もなく、声も上げず。それでも確かに、“それ”は積み上がっていく。
観測補助AIアリス、ログ終了。次項、行軍記録へ移行します。