第32話 砂に沈む影1. 早朝の出発
> 【AIアリス・記録開始】
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> この記録は、ジャック=無姓(年齢:9)とその同行者ユリス=不詳(年齢:7)が、ビーストトレイルの遠征に同行した初日の詳細記録である。
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> 注意:この環境下では、魔力の消費と体力の回復速度に大きな差異が生じる。人間の生体活動は、想定以上に過酷な砂漠の影響を受ける。
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> ただし――それでも彼は進む。
> 魔力を隠し、目立たず、ただ静かに。
ヴェルトラの西門が開かれたのは、まだ夜と呼べるほどの暗さが残る時刻だった。
早朝というには早すぎる。だが、砂漠を渡る者にとっては、ここが“出発点”なのだ。
ひんやりとした風が石畳の隙間を撫で、背を押してくる。
「……よし。全員、行くぞ」
低く落ち着いたガルド・ブレイバーの声に、風の獣道団の面々が静かに頷いた。
軽装で身を包んだ彼らの動きには、無駄がなかった。迷いもなかった。
その数歩後ろ、街道からわずかに外れた場所に、フードを深くかぶった小柄な影がひとつ。
ジャックだった。
ユリスもまた、彼の隣で小さな足取りを合わせるように歩いている。
口数は少ない。二人とも、目立つことを何より避けていた。
いや、避けなければならなかった。
ビーストトレイルの背を追うように、遠すぎず近すぎずの距離で進みながら、ジャックは何度も息を調整する。魔力の流れを外に漏らさないよう、完璧に制御して。
《マナベール、安定維持中。脈拍・呼吸・外皮温度すべて正常》
脳内に響く、冷ややかなアリスの声が鼓膜を通らず届いてくる。
> 「環境確認:気温39度。湿度4%。魔力濃度は通常の三分の二。生体活動への影響が懸念されます」
「わかってる……ここからが本番だ」
ジャックは小さく呟き、ゆっくりと呼吸を整えた。
やがて、一行は砂の大地に足を踏み入れる。
風が吹いた。
ザァ……と音を立てて、細かい砂が舞い上がり、視界を白く覆った。
それは、まるで世界が一枚の薄布で覆われるかのようだった。
歩くたびに、砂が足音を飲み込み、音すら吸い取っていく。
ユリスが、思わず立ち止まった。
「すごい……目が開けてられないよ……こんな世界、初めてだ」
ジャックは言葉を返さず、そっと水筒を取り出す。
砂の侵入を防ぐため、密閉機構を施した自作の魔道具だ。冷たい水が、ゴクリと喉を通る音をたてたあと、ユリスの手に渡された。
「……ありがとう」
小さく、かすれた声。
ジャックはさらに、自作の断熱マントを彼の肩に掛ける。昼の熱から身を守るための、シンプルだが効果的なものだった。
ユリスは頷き、ふたたび歩き出した。
彼の背中に、頼るというより、少しだけ希望のようなものが芽生えている――そんな気配が、あった。
日が高くなるころには、砂の照り返しが強烈になり、隊列の誰もが無口になっていった。
ガルドがふと後ろを振り返る。だが、目が合っても特に言葉はない。
視線は確かに届いていたが、それ以上は何もなかった。
それでいい、とジャックは思う。
今はまだ、関わらなくていい。
それでも、気づいている。
こちらを“仲間として扱わない”ようにしているのではなく、“扱うべきかどうか考えている”段階なのだと。
ほんのわずかに――砂の中で風向きが変わろうとしているのかもしれない。
そして、夕暮れ。
小高い砂丘の裏側に、野営地が設けられた。
風除けになる岩を背にして、火を起こすのはバローの仕事だった。
鍋に干し肉と、スパイスの香りが立ち昇る。
「砂漠じゃこのくらいの刺激が丁度いい。体も温まるしな」
彼の声とともに、焚き火の周りには笑い声が少しずつ戻ってくる。
その輪から、ほんの少し離れた場所。
ジャックは膝を抱えるように座り、手元のノートに文字を刻んでいた。
記録するのは、風速、気温、湿度。そしてユリスの支援魔法の発動回数と効果時間。
小さな成果でも、きっとこの先の何かに繋がる――そう信じて、ページをめくり続ける。
夜が深まるにつれ、風の性質が変わる。
暑さを忘れさせるほどに、肌を刺す冷たさが忍び寄ってきた。
ユリスが、ジャックの隣で体を丸めるようにしながら、断熱クロークに包まって眠りにつく。
口元が、少しだけ笑っていた。
きっと、夢の中ではもう少しあたたかい世界が広がっているのだろう。
> 【AIアリス・補足記録】
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> 本日の生体活動に異常は確認されず。ユリスの支援魔法の発動精度:前回比12%向上。
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> この先に待つのは、さらに過酷な環境と、未知の魔物たち。
> だが、彼らは歩みを止めない。
>
> なぜなら――そこに、「何か」があると信じているから。




